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[建造物][地蔵・銅像・石塔][循誘校区]は8件登録されています。
建造物 地蔵・銅像・石塔 循誘校区
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大黒天
大黒天は、インドや中国においては古くから寺院の守護神とされ、また、豊饒を司る神として信仰されていた。わが国では大国主命と習合し、エビスとともに福神の代表的な存在となって信仰されてきた。大黒天には、甲子待ちの主尊として崇敬されているのと、福神信仰に基づくものとがあって、甲子または子の日に、夜遅くまで起きていて精進供養する行事を子待ちまたは甲子待ちといっている。甲子待ちまたは子待ちは主として農村で催されていて、県内の大黒天像の多くは農村地帯に分布している。大黒天頭巾をかぶり、右手に槌を握って右肩のところに捧げ、左手で袋の口を握り、背中に袋を背負って、2個の俵の上に立つ像で、脚が極端に短かくて、胴の下に足先だけがついているような像で、果して立像だろうかと疑念をいだかせる像もあるが、すべてが同形式の大黒天である。お顔を見ると、半月の眉、目尻の下がった細い眼、笑を含んだ口元など、典形的な福神の相である。エビスさんと大黒さんは一対をなす福神として信仰されるが、この両者の出身はそれぞれ異なって、エビスさんはわが国生まれであるのに対し、大黒さんはインドの生まれで、仏教とともにわが国に移住された異邦人である。この両者が一対となって信仰されている点は、現代風に見ると国際結婚の先駆者とでも云うべきでしょう。循誘校区内には、材木2丁目にあり、久保泉西原の大黒天は、路傍にあってとても大きく、威風堂々としている。
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西宮塔
文字が書かれているエビスさんとして、最も多いのが、この『西宮』塔で、このほか『西の宮』『西ノ宮』があり、そのうち数の少ないのが『西の宮』塔である。エビスを西宮として祀るのは、エビスを祭神とする摂津国の西宮社の社名を用いたものである。エビスの文字塔は、幕末以後の造立で、文字塔そのものの造立年代が比較的に新しいと云うことがわかる。この文字塔は像と比べると、極めて安価に求めることができるという利点がある。この文字塔の出現は、単なる経済的な問題のみであろうか、集団的奉祀へとエビス信仰のあり方が変わった結果であろうか、とにかく、文字塔の出現は、エビス信仰の研究上注目される課題の一つであろうと考えられる。エビス文字塔には、自然石塔や切り石塔が多く、奇麗に整形し磨かれた駒形塔もある。材木1丁目の西宮塔は、造立年の明らかなものの中で古いものといわれ、文字の下方に鯛が一匹丹念に刻まれているのも他に例がなく、注目すべきものである。文字は『西宮』と書いてあるほか『恵比須大明神』 『西宮大明神』『恵美須尊』『蛭子命』『蛭子』等があるが、『夷塔』はなく、『夷』という文字には、異郷から訪れた神と云う意味が含まれていて、エビスに対する古い時代の考え方を伝えており、蛭子には神話の流れを伝えている文字だとも考えることができるようである。
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馬頭観世音菩薩
循誘小学校の南、記念橋付近の路傍に馬頭観世音菩薩の石像仏がある。この馬頭観世音菩薩は観音様の一種で、六観音の一つである。観世音菩薩は、通称観音さんと庶民に親しまれているが、人々のあらゆる災難や恐怖を救ってくれる御利益がある。この功徳が説かれている『観音経』というお経には、どんな災難があっても観音力を一心に念ずれば決して恐れることは無いと説かれている。また、生きる勇気や自信も与えてくれるという。これは除災招福のありがたさのために、観音様は日本のいたるところに見られる。人々の願いに応じて、千手観音、聖観音、十一面観音、馬頭観音などと千変万化に姿を変えられたからである。法華経普門品に説く三十三身すなわち観世音菩薩が三十三身に姿を変えて、観音の信仰者を救済することを説いている。千手観音、聖観音、十一面観音、馬頭観音、このほか不空羂索観音、如意輪観音を総称して六観音と呼び、また、不空羂索観音の代わりに准胝観音を加えて六観音と呼ぶ場合もある。これらすべてを合わせて七観音ということもある。馬頭観世音菩薩は、頭上に馬頭を戴く観音でインドのビシュヌ神の化身が仏教にとりいれられたものといわれる。その激しい性格から、馬頭明王として、観音に珍しい忿怒の表現をして、八大明王の中にもその名があげられている。本来は、転輪聖王の宝馬が世界を縦横無尽にかけめぐるように、一切の魔障を摧破して、人悲の大願を果たす威力ある観音という意にとるべきである。六観音を六道に配して、この尊が畜生道の苦を救う観音であるところから路傍にまで見られるように一般化した。また、馬頭観音の信仰は、馬の安全を祈ること、あるいは旅の安全を祈ることになるのか、別れ路の傍に立つと、この観音が安置してあるのがみられる。特に中部山岳地帯に多い。
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青面金剛刻像塔
60日に一度めぐってくる庚申の日、その夜を眠らずに過ごして健康長寿を願うのが庚申信仰である。庚申とは、十干十二支の組合せでできる六十干支のうちの一つで、年や月日を数えるのに用いられるものであり、すなわち庚申とは『庚申の日の信仰』ということである。 庚申信仰は、中国の道教信仰に基づくもので、日本では江戸時代に盛んになったが、今はあまり見かけられなくなっている。道教の教えというのは、『人の身中には、みな三尸(さんし)九虫の悪い虫が宿っている。この尸虫が庚申の日には昇天して、天帝にその人の罪科を告げて記録し、生命を縮めようとしている。道を学び不老不死を得ようと思う者は、まず三尸九虫を滅しなければならない。この三尸を制するのは、庚申の夜を眠らずに守り、天帝に罪を訴えることができないようにすることである。罪が、500条に満つると、その人は必ず死ぬ。三度庚申を守れば三尸は振伏し、七度庚申を守れば三尸を長絶する』ということである。 庚申の日は、講の人達は一日中身を慎み、悪いことを見てはいけない、悪いことを聞いてはいけない、悪いことを語ってはいけない、ということで『見ざる、聞かざる、言わざる』の三匹の猿が庚申塔に刻まれて、人々に注意をうながす。もしそれを破ると、口が曲がったり、目がつぶれるなどのたたりがあるといわれている。また庚申の日の夜に夫婦が交わることを固く禁じて、この晩に身ごもるとその子は、盗人になるなどと言われる。このように一晩中眠らずに、飲んだり、食べたり、語り合って過ごすことを『守庚申』(しゅこうしん)、とか『庚申待』(こうしんまち)といった。また庚申信仰が江戸時代に盛んになったのは、実は、庚申の神は一方で農業の神、養蚕の神、馬の守り神、漁業の神とされて、庶民の現世利益の『福の神』であったからであって、その後も庚申は、泥棒除けの神、火防の神など万能の神としてあがめられた。本覚院の『青面金剛』という明王は、中央部に邪鬼を踏む六手の青面金剛立像で、六手の持物は、左に三股叉、矢、宝棒、右に、一輪、弓、羂索、頭髪を逆立て両臑を現わしている。庚申塔が他の神仏と習合する例の中で、最も多いのは道祖神である。これは庚申の申(さる)と道祖神は猿田彦だなどという俗説に由来するものと思われる。このほか大日如来と庚申との習合や、地蔵尊と習合している場合もある。庚申塔は、往々寺院の境内に立つこともあるが、普通には路傍とか、三辻などに、そしてよく塞ノ神と仲よく並んでいることもある。こんな場合は大抵村の入り口などであって、疫病神の侵入を防ぐ役目を分担するものと思われる。そのついでに道標を兼ねていることもある。庚申塔の中には、庚申、猿田彦、青面金剛等と記された文字塔の他に青面金剛の図像を刻像塔としたものもある。
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紺屋町の六地蔵さん
地蔵尊は観音菩薩とともに、最も庶民に親しまれ信仰されている菩薩である。県内の地蔵菩薩石像としては、明徳2年(1391)南北朝末期から室町時代前期の応永年間(1394−1428)にまず出現しているが、六体の地蔵を一石に彫顕した六地蔵の造立が室町時代の後期に盛んになった。 地蔵尊は、六道(天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄)を輪廻転生する衆生を救済するということから、六つの分身と考え六地蔵としたと云われる。 佐賀県内で一番古い六地蔵さんは、文明16年(1484)に造立された嘉瀬町荻野の路傍にあるもので、路傍にたつ地蔵尊の信仰は、道祖神よりも盛んなように見受けられ、あるいは塞(さえ)の神に習合して路上守護の役目を果たしたかもしれない。 寺院や部落の出口、墓地の入り口に多く見ることができる。このようなものは、近くでは、大財の精金寺、六反田の長楽寺、愛宕神社、清心院等にある。 紺屋町の六地蔵さんは、宝暦13年(1763)の銘がある。この形式のほか、塔身を二段に分け、上に六観音、下に六地蔵を半肉彫りにしたものもあるが、九州地方の一石六面と十二面の様式は、他地方に類を見ないと云われている。
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二十三夜塔
三夜待ち、六夜待ちともいうのは信仰的な講であったが、今では親睦的な寄合いになっている。本来、神のそばにいて共に夜を明かすことと考えられていたのが、月を待つことに変化していったものといわれている。三夜持ちは、毎月23日の夜、青年組、中老組、老人組に分かれて催す男の人達の講で、女子の二十三夜講は存在していないようである。二十三夜講塔には『二十三夜』と記されたものが最も普遍的であるが、他に『勢至菩薩』『大勢至菩薩』としたもの、『月読命』『月夜見命』『月弓尊』としたものや、更には『月天』と刻まれたのもある。 文字塔のほか、尊像や二十三夜月、あるいは瑞雲等を彫顕した『刻像塔』があるが、刻像塔の大部分が勢至菩薩像である。紺屋町の刻像塔は、文久2年(1862)の建立で、材木町の日天神社にあるのは、安政5年(1858)となっている。また、毎月の月待ち行事の他『お日持ち』があるが、これは毎月でなく年に一度行うところが多く、牛島町でもこの風習があり、この他鍋島町の蛎久では7月15日に、東脊振では、10月14日から15日に寄り合いをして酒をのみ、家々で餅つき料理を作ったりするようである。
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弁財天
水の神の祖は、罔象女神(みずはめのかみ)であったといわれるが、渡来の祇園の牛頭天王(ごずてんのう)須佐之男命(すさのおのみこと)が習合して(神と仏と折衷して一体となること。)祇園様と呼ばれ、水神となったように、時代によって信仰は多くの神々をつくりだしていった。そして水神も世の中が複雑化していくにつれて、他の神へと転化されていくことも多くなってきた。弁財天もその一人である。弁財天は一般に『弁天様』といって、七福神の紅一点で美女の代名詞になってよく知られている。インドの古代神話で河川を司る水神であったが、仏教とともに日本に伝わった。日本は、多神教の国であり、神にしろ仏にしろ、そしてその他の神もその数は無数である。そしてある一体が時によっては神になったり、仏になったりする。また神か、仏か、いずれに属するのか不明のものもなかにはある。『七福神』など元来は仏教関係で仏様を守護する神がわが国に渡来して以来、中国の道教思想が取り入れられ、さらにわが神道思想と相まって七福神という神様ができあがった。呼び名として『大弁才功徳天』『妙音天』『美声天』などがあるが、土地を沃し、五穀豊穣をもたらす『水神』として農民に尊敬されて、よく水辺とか、川辺に祀られ、水を司る神とされていた。このほか水の流れる音に因んで、音楽の神、弁舌(知恵)の神などの『技芸神』として花街の女性や多くの人々の信仰をあつめた。また、財福の神、名利を望む人に功徳があるとされ、『弁才天』が『弁財天』に改められ、現在では『水神』『農神』より、ついに『財福の神』『福神』へとその性格が変わっていった。弁財天の神使は『蛇』である。蛇が大蛇になり、やがて雲を呼んで竜となるといわれ、竜は『竜神』として雨を降らせるとして各地に『竜王』または『八大竜王』の竜神信仰も農民の間に普及していった。金立山や天山などには弁財天が祀られているが、おそらく農業用水の供給源としての水神信仰が、これらの山には古くからあって、この水神信仰が水神としての弁財天と結びついていったと思われる。
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大財地蔵さん
大財3丁目信号(大財通り)を西に向かい、左手2本目の路地を入ったところに、2体の地蔵菩薩と2基の石碑が寄せられています。向かって左から2番目の地蔵菩薩坐像は、右側面に「明和五年秋彼岸」とあり、明和5年(1768)の建立です。左側面には「願主宮嶋氏 同施主中 廊善」とあり、台座には「三界萬霊」とあります。三界とは私たちが生まれかわり往来する世界のことであり、欲界(欲の世界)・色界(物質の世界)・無色界(精神の世界)の三つの世界を表し、万霊とは衆生ありとあらゆる精霊のことで、すべてのものを供養するための塔という意味があります。 また、向かって左端に同じく地蔵菩薩坐像が鎮座し、右側に2基の石碑がありますが、いずれも記銘などはなく、詳細は不明です。 設置された看板には「お願い事を何でもかなえてくださる有難いお地蔵さんです」とあり、大財地区ではよく願い事が叶うお地蔵さんとして親しまれています。