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[建造物][碑][赤松校区]は8件登録されています。
建造物 碑 赤松校区
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佐賀の馬鉄
愛右衛門橋のすぐ南側が「馬鉄道の停車跡」になっている。現在、吉原病院の敷地内に「記念碑」が建てられ、その記念碑には次のようなことが記されている。馬鉄(馬車鉄道)はレールの上の客車を馬が引く輸送方法である。佐賀の馬鉄は明治37年(1904)2月に佐賀馬車鉄道株式会社が発足し、本社および車庫を水ヶ江のこの地に設け、明治橋(現在の馬責馬場)から諸富まで、幅2尺6寸(約79cm)の軌道が敷設されたのが始まりである。明治31年、佐賀セメント会社の創業により交通の便をよくすることも考慮された。明治37年10月に開業し、明治橋、諸富間の全線を10の区に分けて営業したが、翌年には水ヶ江から県庁前、御幸橋を経て佐賀駅前まで路線を延ばした。佐賀駅から諸富までの所要時間は約1時間余りで「諸富国道ガー夕ガタ、馬場に乗ればツーツラツー、はよーねんねんしんしゃいの」と当時の子守唄にもうたわれた。大正元年(1912)神野、川上間の川上軌道が設立された。同年8月には佐賀馬鉄と合併して佐賀軌道株式会社と改名した(※)が、昭和12年(1937)には全線がバスに変わったと記されている。なお、この記念碑は吉原病院院長吉原正智先生が私費で建立された。 ※合併は大正8年8月(『鉄道省文書 佐賀電気軌道 三巻』国立公文書館デジタルアーカイブ)。大正15年(昭和元年)には馬力からガソリンへの動力変更願を出しており、昭和3年には馬鉄自体は終了した。その後昭和12年に全路線がバスへと移行している。
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佐賀の役招魂碑
明治7年佐賀戦争で戦死や処刑された江藤新平、島義勇ら216柱を弔うため明治18年に建てられたものである。明治6年司法卿当時、征韓論を唱えて下野した参議の江藤新平は佐賀に帰り、征韓党を組織した。また秋田県令島義勇も職を辞して佐賀に帰り、憂国党を組織した。ともに征韓論を強く支持し、勅許を得ようと動きまわった。一方政府は佐賀の不平士族を鎮圧するため岩村通俊を佐賀県令に任命。岩村は熊本鎮台の兵を引きつれて入城した。これに刺激された両党士族約5,000名が政府軍と相対した。2月16日戦端は開かれ攻防10日余佐賀軍は敗退した。毎年4月13日、佐賀戦争の戦死者の霊を祀って慰霊祭が行われている。
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佐賀師範学校跡記念碑
【記念碑】 育英の道に志し 青春の夢を抱きて 集い来る朋有り 佐賀県師範学校 佐賀県女子師範学校 佐賀青年師範学校 佐賀師範学校 佐賀大学教育学部 同窓会創設八十周年を 記念して思い出深き 佐賀師範跡をここに建つ 昭和四十二年十一月 有朋会 ※写真は改修前のもの。2020年に佐賀大教育学部の同窓会、有朋会が同窓会設立130年を記念して改修された。
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殉国十三烈士の碑
明治7年の佐賀戦争は、われわれ先人が近代日本建設の途上征韓論に端を発し、国を愛する真心と民権尊重のためのやむにやまれぬ戦いであって佐賀軍の敗北に終わった。戦後の処分は有無をいわせぬ即断裁判によって過酷を極めた。維新政府の功臣だった江藤新平、島義勇の両首領は、さらし首の極刑に処せられたのを始め、征韓、憂国両党の幹部は悉く斬首され佐賀城内の露と消えた。この中にはまだ26歳の香月経五郎、27歳の山中一郎ら若い逸材もいた。この二人は江藤門下の双璧として将来を嘱望されている人だった。その血を吐くような辞世「天道非か是か。涙、泉のごとし」と。この13烈士が長命を保ったとすれば、明治以降の近代化や社会政策の発展に大いに寄与したものと思われる。徹底した佐賀の弾圧は「佐賀県」の誕生を明治16年まで遅らせ、小城の松田正久が自由党をつくったといっては解散を命ぜられ、明治14年の政変では大隈重信が議会設立をもくろんだといっては失脚させられたりした。佐賀戦争を見直し13烈士の国を愛する情熱を顕彰することによって、青少年の健全育成に役立てようとの願いをこめての碑である。後年、明治天皇の御聖断によって賊徒の汚名が消され、大正5年に江藤、島両氏の生前の功績に対し、特別に爵位の恩命があった。 江藤新平 正四位 島義勇 従四位
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蒼海伯副島種臣誕生地
幼名次郎。体弱く引込思案。父佐賀藩士枝吉種彰(南濠)。藩校弘道館教授。国学者(経書、詩文)弘道館宝蔵院槍の指南役の武人。兄枝吉経称(通称、李之助。号、神陽)は水戸の藤田東湖と並び称される。種臣は次男、号、蒼海・一々学人。18歳の時、副島利忠の養子となり改姓。生家は現在取り払われ、その地には佐賀県福祉施設が建っている。敷地内に「蒼海伯副島種臣誕生地」と刻まれた巨碑が建てられている。 幼少の頃、恵まれた環境に育ち藩校弘道館ではクラスで首席。2万巻の書物を読破の優秀児。父の感化もうけ、兄神陽の烈しい勤王思想の感化をうける。江藤新平、大隈重信、大木喬任と「義祭同盟」を結んだ。長じて藩命により上洛し皇学を修め諸藩の志士と交流した。幕末動乱について論議し「一君説」を唱え若くして尊王攘夷運動に投じ、将軍宣下の廃止を進言し討幕論の先駆者となった。明治維新にはよく藩主を助け重きをなさしめた。元治元年(1864)種臣は大隈重信などとともに、藩主鍋島直正の許可を得て長崎に「致遠館」という英語学校をつくった。教師にはアメリカ人の宣教師フルベッキを招き、外国の憲法、新約全書を学ぶかたわら漢訳国際法などの研究にはげんだ。慶応3年(1867)鳥羽伏見の変が起こったとき長崎奉行は逃亡し、一時長崎は無政府状態となった。この時各藩の有志に推され、各国領事に維新の意義を説明し、長崎港を管理するとともに関税もとどこおりなく納めさせた。 これが種臣を新政府へ出仕させるきっかけとなった。新政府が組織された時、佐賀藩士で只一人最高地位を得、参与となった。政体書の起草、官制立案、新律綱領立案等の法典編纂に当った。次いで参議、その間外交使節として樺太境界線問題を解決し、明治4年には渡欧の岩倉具視にかわって外務卿に就任した。翌年、ペルーの商船マリヤ・ルーズ号がマカオから清国人奴隷200人を乗せて横浜に入港した。種臣は人道上許されないとして、職権で船を抑留して解放させた(奴隷解放)。この処置に対して、ドイツ、フランス、ポルトガルの政府は日本政府に抗議し国際問題となったが、結局は日本の処置が勝利し種臣の勇気ある行動は高く評価された。また、大使として清国に派遣されたとき老獪(ろうかい)な李鴻章との応酬機宜をあやまらず、琉球問題にも敏腕をふるい、日本外交の礎を築くとともに国威を発揚することができた等、数多くの逸話が残されており、その外交手腕は外国高官の高い評価を受けている。明治6年征韓論によって廟議が分裂した時は、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らとともに民選議院の設立に名を連ねたが、自由民権運動には参加せず3年間中国を漫遊し、李鴻章と旧交を温めるなど日中友好に力をそそいだ。明治11年中国から帰国した種臣は、明治天皇の信認によって宮内庁御用掛兼明治天皇の一等侍講に任じられ、天皇に内外の情勢などについて講義し厚い信任をうけた。 しかし宮中のしきたりや格式などに嫌気がさし、病気を理由に辞意を表わし引篭った時、天皇から直接宸翰(手紙)を賜った。当時、侍講には多くの学者がいたが、いかに信頼を受けていたかがわかる。また種臣がいつも清貧に甘んじているかを知らされた天皇が侍従を遣わし、2万円を種臣に御下賜になった。種臣は天皇の温かい心に感激の涙を流しながら「天皇は万民を平等に愛し給うのが本当の姿で、1個の私を愛し給うものではない。今、国内には天災などで困っている人も多いので、できればその方々に差上げてほしい」と、これを辞退した。種臣の高潔寡欲恬淡(こうけつかよくかったん)は明治政府家中、第1位といわれた。明治25年松方内閣の時、議会が混乱し流血事件が発生した。この危機を救うために高邁な人として種臣が内務大臣として選任されたが事ならずして辞職した。明治17年伯爵を授けられた。再び枢密院顧問官に任ぜられた。 【書家 副島種臣】 種臣は書家として明治時代の最高の一人である。種臣の書は1字1字全身全霊がこめられており、気品に富み人柄が表われ、見る者に襟を正させる何ものかがある。現在佐賀新聞の題字は副島種臣としてある。 【詩人】 また、詩書にもすぐれ思いつくまま雄渾な筆で書きまくった。後の世俗を越えた雅趣が詩人以上の詩をつくらせ、書家以上の書を書かせたのではないかと思われる。 【質素と道楽】 種臣は生涯を通じ質素で食事も豆腐におから、ひじき、こんにゃくが好物で酒は飲まなかった。来客があっても貴賤の別なく十錢弁当を出すことにきめている。 ただ一つの道楽は相撲が好きで、力士を可愛がり借金をして化粧まわしを贈ったりした。明治38年1月病気になり天皇から特旨をもって桐花代授章を下賜され、ねんごろな見舞の言葉を賜った。死期が近まった種臣は力士に棺をかつがせるよう遺言し、同月31日にこの世を去った。葬儀の2月6日は大相撲春場所の最中であったが、横綱常陸山以下20人の力士が種臣の棺をかついだと伝えられている。墓は東京の青山墓地と佐賀市本庄町高傳寺にある。
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副田先生顕彰之碑(筑後川渡船転覆)
故副田訓導遭難殉職の状況 昭和18年10月9日赤松国民学校第6学年男女233名(男125、女108)は、松(男)組を副田美代次訓導、竹(男)組古賀俊夫訓導、梅(男女)組古川幸男訓導、桜(女)組横尾たつ訓導、桃(女)組古瀬マサ訓導の5名にて引率し、福岡縣柳河町に修学旅行の帰途、午後2時頃若津より渡河、第1回に松組(男)49名、竹組(男)17名、他に乗客7、8名と共に乗船出発す。石塚渡場を距る20m深所2.5mの地点に差しかかるや、満潮と多人数の為動揺し船より浸水すると見るまに船は沈みつつ2回にわたり顚覆す。急を見るや附近の船、警防団員数名救助に駈けつく。顚覆と同時に大部分の児童は顚覆せる船体にすがりつき、警防団員救助人に救助せられ、或は泳ぎ渡りたるもあり。 平素水泳錬達の副田美代次訓導は顚覆と見るや直ちに溺れんとする者の救助に当り、浮き沈みしつつある児童14、15名を岸近くまで「泣くな」と激励しつつ助け上げ、全身着衣の上に浪と戦い既に精魂つきたるも最後に「先生先生」と叫びつつすがりつく児童を救い流木にすがらせ、岸に押上げ、尚も流れ行く児童等を助けんと赴きしか身体の自由を失いしものか遂に水底深く姿を没せり。
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開拓紀念碑
(碑文要点) ○ 旧主家(坊所鍋島家)の困窮を憂いて旧家臣や有志が募金計画(事務長に南里忠次、各地の代表を委員とする)し、旧藩公より金員の拝借をして、若干の町歩の田地を購入する願書を作成した。 ○ 佐賀の家扶、中野致明にもとおして、代表が上京、東京鍋島家の家令・深川亮蔵に提出したが却下された ○ 特例として、蓮堀を拝借して堀を埋め開拓埋築の恩命があった ○ 代表が帰郷後、早速、開拓埋築工事に着手して、3年後の明治29年に田地3町5反余を得た ○ 負債の弁償、屋敷の修繕など、また、工事の苦労をたたえるために紀念碑を建てた (参考) ○ 坊所鍋島家は国家老で鍋島生三からはじまる ○ 旧領地は三根郡に坊所村ほか5か村、神埼郡9か村、佐賀郡3か村となる。地米高は嘉永7年(1854)2020石余
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楠の木おばさんの碑と大楠群
福田よしが54歳であった昭和25年(1950)に、旧佐賀城一帯の楠20数本が業者に売り払われ伐採されようとした時に楠の木の前にはだかり、「こいば切っないば、私を先に切らんかんた」と叫び、伐採阻止の行動を起こした。そして「楠保存会」を発足させ、佐賀県知事鍋島直紹氏には楠の木保存の重要性を訴え、県知事後援のもとに楠の木の保存のために奔走された。 佐賀城跡の楠群は、昭和28年(1953)11月3日、佐賀県天然記念物に指定され永久保存されることになった。また、県庁前に碑が建立され念願であった目的を達成することになった。 楠は、昭和29年(1954)に佐賀県の「県花」となり、昭和41年(1966)には「県木」に指定された。 昭和55年(1980)には、佐賀城公園西堀端に「楠の木おばさんの碑」が地元自治会で建立され、今後とも西城内で活躍され、西濠の水と大楠の緑の大群の景観を現在に残して頂いた福田よしさんを顕彰していかれる。