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[遺跡・跡地][跡地][赤松校区]は5件登録されています。
遺跡・跡地 跡地 赤松校区
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山本常朝誕生地
中の橋小路、水ヶ江大通り、角の野田金物店から東に入って4軒目、戦前、県立病院臼井鉄治院長が開業していた臼井病院跡地に「葉隠口述者山本常朝誕生地」の石の標柱が立っている。 山本常朝は万治2年(1659)中野神右衛門重澄の三男としてこの地に生まれた。重澄は承応3年(1654)有田代官を辞任して64歳で佐賀に戻り、この地に住んで本藩に仕え、万治元年(1658)隠居が認められたのは4年後69歳のときであった。常朝はその翌年、重澄70歳の子として生まれた。常朝は幼少の頃虚弱体質であったが、父重澄はスパルタ教育で常朝を鍛えた逸話も多い。あの気迫にみちた『葉隠』を生む原動力となった。
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鬼丸聖堂跡
佐賀藩2代藩主光茂元禄4年(1691)佐賀二の丸に設立。元禄10年(1697)3代藩主綱茂二の丸聖堂を観頤荘内に移転する。当時佐賀藩の学問の中心であった。弘化3年(1846)10代藩主直正(閑叟)聖堂は弘道館に移される。広壮な観頤荘もいつとなく廃滅し何ひとつ名ごりをとどめていない。ただ広大な庭園は観頤荘の図によって当時をしのぶのみとなり、鬼丸聖堂は講堂「天縦殿」の額や孔子をはじめとする三聖像などが現在佐賀県立博物館に保存されている。 佐賀大学が文教にゆかり深い一角を占めているのはゆかしいことである。 【由来】 佐賀藩3代藩主鍋島綱茂は17違いの異母弟、多久5代邑主国家老多久茂文とともに学問好きの殿様として知られ部屋住みのころから経書にも通じ書画にも巧みであった。のちの5代将軍徳川綱吉の前で輪講を勤めたほどであった。多久茂文が貞享年中(1684〜1687)聖堂(後の多久聖廟)及び学校を建てようと志し、本藩の許可を願い出るとまず佐賀に建ててからということになり藩主光茂(2代)は世嗣綱茂の肝入りで元禄4年(1691)佐賀城内二の丸に小規模であったが孔子孟子ほか四君子の像を祀って聖堂を設け諸人の礼拝を許した。 【注】 経書 儒教で聖人賢人の言行や教えを書いた根本経典四書五経 儒教 孔子を祖とし仁義道徳を説き、身を修め家をととのえ天下を治めることを目的にした政治道徳の教え。中国歴代の正統思想として重んぜられ、わが国にも古くから伝来して大きな影響を与えた。
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水ヶ江城
第14代龍造寺康家が村中城を次男の家和にゆずって水ヶ江に隠居し館を設けた。更に分家筋の家兼(剛忠)にゆずった。家兼は龍造寺氏の守りを強化するために城を築く。それが水ヶ江城である。このことは大内氏・大友氏の攻撃に備えるためだったと思われる。家兼(剛忠)は戦国武将として活躍し、分家が本家村中城をしのいだという。龍造寺隆信はこの地でうまれた。
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古賀忠雄誕生地
古賀忠雄は、明治36年に佐賀市水ヶ江町105番地(現在の水ヶ江五丁目)に生まれている。 この地に、古賀忠雄誕生地の標柱が昭和61年3月31日に建てられている。 古賀忠雄は、幼少より図画、手工、習字などにすぐれ、附属小学校高等科を卒業後、佐賀県立有田工業学校図案絵画科入学。この間、日本画家腹巻丹丘に認められ、東京美術学校彫刻科彫塑部本科に入学。 在学中、第10回帝展の「仏心」を出品し初入選する。昭和14年36歳の時、第3回文展(戦後日展に改称)へ「岬の男」を出品、特選を受賞する。後に第5回文展出品「建つ大東亜」で帝国芸術院賞を受賞し確固たる地位を築く。戦後は、日展委員、審査委員、参事等を歴任、昭和42年日本芸術院会員となり日展常務理事、日本彫刻会理事長、陶彫会会長等の要職を務め多忙を極める中、深い情緒性と力強さのあいまった作品を発表し、日本彫刻界をリードした。
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佐賀米穀取引所跡
江戸時代の税の納め方は米で納めるという米納制度で、明治政府は明治6(1873)年の地租改正条例により金納制度に改められた。 そのため米穀を換金するための、米穀市場が必要となった。株式会社佐賀米穀取引所は、明治27年(1894)佐賀取引所を母体とし、佐賀市松原町に設立された。取引所の売買は、東京や大阪と同じ競り売買で行われ、米の受け渡し場所は県内各地や県外に設けられた指定倉庫とされてきた。 初めの頃は、売買も1日に2回、大阪の堂島米穀取引所の相場を見ながら行われていたが、売り上げ、出来高は順調に伸び、仲買人も年毎に増加し、業務規模も徐々に拡大され、資本金も設立時の3万円から明治34年(1901)に10万円に、さらに大正9年(1920)には30万円に増額された。 佐賀米穀取引所は、佐賀県経済の発展に大きく寄与したが、昭和14年(1939)9月、政府の米穀統制強化の結果米価が一定となり、明治以来60有余年の歴史に幕を閉じることになった。