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[遺跡・跡地][跡地][久保泉校区]は7件登録されています。
遺跡・跡地 跡地 久保泉校区
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城山中世山城址
川久保の山中、勝宿神社の東方で標高115メートルの尾根に、地元ではイモのガンギー(芋の雁木)と呼ばれている土塁を持つ山城址がある。現在その全体が雑木林に埋もれており、外観は普通の山林と大差ないが、一歩その中に踏込んで見ると、南北に細長い尾根に幅2メートル、深さ1.5メートル、長さ35メートル程度の溝が、幅約2メートルの土塁をはさんで東西に走っている。また、尾根の頂には径10メートル程度の平坦地があり、ここに何らかの施設があったのではという想像をかりたててくる。 この城址は何時、何人によって造営されたものかは不明であるが、神埼の城原地方にはこの種の、しかも大規模な中世山城址の存在が知られており、当地のそれも同時期のものと推定できる。 いずれにせよ、当地は、北は脊振東は神埼南は佐賀平野を望む交通の要衡であり、この地に何らかの「砦」的施設があってしかるべきものであろう。 東鹿路から妙楽寺へ出る道を「川久保道」と昔から云っていた。この道は、山内の三瀬・脊振はもとより、福岡・唐津への近道でもあり、川久保を通じ平野部へ通じる重要な交通路であった。 この開口部にあって、山内の様子も平野部の様子も手に取るようにわかり、三方を険しい崖で囲まれた要害は、山城として持って来いの場所である。従って古代から砦なしの城の機能があった。 この山頂の南から北へかけて、深い堀が二重にある。これを間道という。日の隈山から北の城原へかけても、この間道が遺っている。 兵を動かす為か、防禦用だったかわからない。 いつ、誰が、どの戦に使ったかも戦記には見当たらない。 或る人は、神代の砦があったとか館・曲輪があったと言うが、古代から中世までは使われても、神代が芦刈から戻ったときは、既に龍造寺・鍋島の配下となっていて、こんな要害を使わせる筈はない。神代の館は平地に設けられた筈である。 勝宿神社前の通りを「馬責馬場」というが、武家屋敷の近くの馬の調練場・合同馬管理場の外に駄馬待合所、牛馬売買所の場合も馬責馬場という。八ツ溝南の「下馬責馬場」も同様である。
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八ツ溝古戦場
神代勝利の子、長良は、永禄8年(1565)3月に父を亡くし、4月には子供2人の急逝にあい、悲嘆にくれていた。 たまたま、千布友貞の土生島青土の砦にいた4月の23日に、龍造寺隆信の長臣納富信景がやって来て、悔み述べると共に縁組の復活の話を持ち出し、隆信には別心はない旨の誓書を届けたいと申し出て帰った。 ところが、その日の夜には納富の率いる大軍が、手薄な千布砦を包囲し攻め込んで来た。長良は不意をつかれ、家臣古川佐渡守嫡子新四郎等数名でやっと囲を破って脱出し、山越えして筑前の戸坂に身を隠した。 これを「千布崩れ」という。 翌年、長良は再び山内に迎えられたが、如何にして去年の仇を晴らそうかと家臣の古川と計り、干ばつなのを幸い、納富の領地へ流れる水を八ツ溝で堰き止め、一滴も流さなかった。納富はこれに憤り、息子の納富治部大輔に屈強の兵を大勢つけ、5月9日堰崩しにやらせた。古川は兵を四手に分け、三手は川の近くの窪地に伏せさせ、中央の一手を農夫に装わせ八ツ溝近くで納富勢をおびき寄せさせた。納富は増増怒り、自ら陣頭に立って中央隊を攻め、遂に南原まで攻め込んだ。ここで伏兵の三手はときの声を挙げ攻め立てたが、敵もなかなかの強者ぞろい、反撃を繰り返したが、古川兄弟の槍には勝てず、治部大輔も討取られ他の将兵もことごとく討死した。この戦を「八ツ溝合戦」という。 これで千布の恨みも晴れ、中佐賀一帯は神代が支配するようになった。
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川久保焼 窯跡
川久保の両県道交差点を東へ1粁、左手の小高い山を皿山という。西が千葉胤正の屋形山、東が古墳のある大塚山で、中央の皿山の北斜面の密柑畑の中に『川久保焼窯跡』の標柱が見える。 傍らに3m角の窯壁が見え、下にも二段位ある登り窯である。窯の底部は作物があって見られないが、付近から半磁器の皿や碗それに窯の中で使うトチン、変形不合格品の破片が転がっている。 灰色地や褐色地に上薬=釉がかかったもの・かからないもの、灰色釉・飴色釉・ヒビ焼風・赤絵のあるものなどが見受けられるが、作は悪くない。 大塚山北端・屋形山東斜面にも窯の遺構がある。 この窯は、元禄の初め1690年頃、神代6代邑主直長(鍋島勝茂の十男)が、韓人陶工に築かせたと伝えるが、朝鮮侵攻から100年経っているので、末えい=子孫だろうか。また、ここで長くは焼いていないようなのは、製磁に向かない土だったのか、或は大川内へ移動させられたのか。いずれにしても散逸する前に早く本調査を期待する。 西原お茶屋跡から、お茶屋火災直後、焼物の鋳込型数種が発見された (川原末四郎氏提供)。また近くから薄青磁の香炉や菊形の皿が出土した。窯跡は探せなかったがこの近くに窯が築かれていた、と伝える。 名付けて『御茶屋焼』又は『お庭焼』と呼ぶ。神代15代邑主直宝が、明治の初期焼いたという。
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祝部窯跡
小清兵衛西端 関行丸古墳の南に神籠石の説明板がある。これから東へ250米、突き当たった処が小清兵衛山で、南の方3米のところに窯跡があった。これが『祝部窯跡』である。道路拡幅で削り取られた。単窯で、焼成度は600度位、短時間焼いたので赤褐色のままで、もろい。 埴輪・杯・皿・坩などが焼かれたらしく、すぐ北の溝の中からその破片が見付けられた。主に祭祀用に使われているが、町内から祭祀遺構が発見されていない。質が脆いこともだが、祭祀の後で器物を壊す習俗があり、残物が見当たらない。 葬儀後、出棺時に本人の愛用した碗を門口で地にたたきつけて壊す習俗は、今も各地に遺っている。
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土師器土器窯跡
古墳時代前中期から奈良時代まで使われていた土器で、7〜800度の焼成だから幾分硬く黒灰色又は黄褐色。文様はなく素焼。皿・碗・高杯・壷などが作られた。西原古墳や金立西隈古墳から一点ずつ出土しているが、古墳後期(6世紀から7世紀前半)の住居跡からは多数出土しているので、日常生活に使われたということだ。 であれば、町内か隣町に窯がなければならない。未だ見付からないので、探索中である。白石原までも下っただろうか。
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須恵器土器窯跡
神籠池北岸・不動滝下・后浦 神籠池北、ひの口の東5m程のところに、黒ずんだ箇所が堤防からも見える。登り窯なので縦に細長い。1千度を越える焼成だから製品は硬い。 不動滝下には、癒着したもの・歪んだものが散乱するが、昭和28年、村の青年団の協力でハイキングコースの整備をしたその時、上分だったか西原だったか青年が、壷形土器と皿の完成品を発見した。この壷は火葬骨の蔵骨器とみられ、祐徳博物館に保管されている。なお、不動滝下は平安前期の窯とされ、数少ないものだが、壊れるにまかせ本調査をしていない。后浦は溪谷近くまで開墾され、破片のみで窯跡不明。
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お茶屋跡
川久保には、小学校北に広い地域の『屋形』がある。東の屋形は隈本山の麓古川氏方前をいう。ここは大阪在の神代良夫氏系の屋敷跡で、戦災前の系図で確認した。西の屋形は学校北のことだろうか。 勝宿社前に館があったと言う人もあるが、確証がない。 西原東の「お茶屋」には、城内の神代屋敷(今の県庁舎一帯)からたびたび直系が訪れ、或は明治前後は居館として使用されていた。『川久保別邸内に享保年間(1716〜1736)、館新営』とある。ここがお茶屋という名で「川久保さん」(神代直系)が起居したであろう。 茶室があり、館があり、お庭焼の窯跡や学舎があったであろうお茶屋は、直系や家臣の離散・代替りで屋敷は転々と人手に移り、今は顧みる人もなく、それこそ根刮ぎ土取場となって、昔の面影は全く失せた。