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[旧佐賀市][ 人物]は161件登録されています。
旧佐賀市 人物
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古賀清右衛門(緞通碑)
生年月日不明、元禄12年(1699)7月10日没 扇町出身、農家に生れたが志を立て韓国に渡り、中国伝来の「毛氈」の手法を学び、帰国して「扇町毛氈」を創作した。堅固で多様な色彩、紋様が人気を呼び、当時扇町一帯に10数軒の機織屋があって繁栄した。これが藩に認められ「鍋島緞通」として藩の御用商品となり、一般庶民間の売買は禁止されていた。 幕府への献上品ともなり藩の貴重な商品となっていた。明治維新で職を失った士族救済のための「士族授産」として技術指導が行われたという。顕彰碑(緞通碑)には「緞通由来記」が刻まれている。 墓は扇町の苗運寺に在る。
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松永安平
生年月日不明 明治16年(1883)12月8日 没 扇町に生れる。明治13年、扇町の苗運寺境内に栄昇小学校が設立された。その際、校地並びに校舎を寄付し、学校設立に大きく貢献された。その功績を称える頌徳碑は大正16年に苗運寺境内に建てられている。
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鵜川徳次郎
明治11年(1878)2月9日生れ、昭和20年(1945)6月21日没、69歳 学校敷地寄付。嘉瀬町嘉瀬津在住だった。 明治23年(1890)10月30日の小学校令改正で、嘉瀬村の小学校が統合され、学校が新築されたが、その時の敷地を寄付(今の青藍団地全域)。その後、昭和20年(1945)に、国道南に校舎が新築移転した。その折も校地並びに校舎建設資金を再び寄付した。また、学業と善行に俊れた生徒に「鵜川賞」があった。頌徳碑は嘉瀬小学校玄関の東の校庭に建っている。
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中原勇夫
歌人 佐賀大学名誉教授 明治40年4月1日生れ、昭和56年4月25日没 74歳 嘉瀬町天草江に生れる。著書 「今泉蟹守歌文集」「中世和歌集」他、歌集 「年輪の序」「常歌」「続常歌」他、ひのくに短歌会主宰、佐賀県短歌協会を結成し会長を務めた。 佐賀県文化賞、佐賀市政功労者表彰を受賞した。佐賀市高伝寺と伊万里市自然公園に歌碑がある。
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高柳儀八
海軍中将 明治24年(1891)4月17日生れ、昭和48年(1973)12月29日没 81歳 嘉瀬新町に生まれ、新町の分教場で学び、後に海軍兵学校入学・卒業。昭和16年(1941)戦艦大和の第2代艦長、終戦時は海軍兵学校副校長。 戦後は、郷里の嘉瀬村で教育長や公民館長初代長生会長(現老人会)を歴任。 館長時代に公営結婚を唱え429組が挙式。俺の一生は「艦館」だったとよく云われていた。達筆で公民館にも額をもらっている。生家は嘉瀬川の拡張で今はない。 墓は中原の臨滄庵から東京へ移転。
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一編舎十九 蒲原大蔵
天明3年(1783)生まれ、安政4年(1857)4月2日没 75歳 金立の大門で28年間創作、活動をし、作品は20作余りある。肥前史談会古書刊行部会で昭和3年12月10日発行。非常にユーモアに富み、面白く可笑しく飽くことがない。墓は中原の臨滄庵にある。
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内田清一
明治13年(1880)5月12日生れ、昭和14年(1939)4月5日没、野田出身で、明治37年より大正4年まで、旧制中学校の柔道教師を勤める。大正4年以降、製紙、印刷、水産、紡績など各種会社の社長となり会社経営に携わる。大正5年より佐賀市会議員当選4回、佐賀県会議員当選5回。政界でも活躍した。明治44年には私立佐賀実科女学校を佐賀市与賀町に創設、校主となり女子教育にも傾注した。私立実科女学校は幾らかの変遷を経て現在の佐賀清和学園に引き継がれている。胸像が清和学園の中庭に建っており、墓は赤松町龍泰寺に在る。
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平山 栄十
平山栄十は、坂井嘉右衛門の二男として西与賀厘外西に生まれる。庄家の平山家の養子となり平山家を継ぐ。和雄と号す。和歌をよくし万延元年(1860)6月庄屋の職に推挙される。村政の経営にはげむ事、数十年村のために善政をしいたのである。また文久2年(1862)5月麻疹(はしか)が村中に流行するや、自分の田を売却して村民を苦難より救う事もしばしばであった。また副島種臣が、長崎遊学に燃えていた時、家が赤貧であったので義父利忠は、思い悩みの末、庄屋であった平山栄十翁に学資を相談されたところ快く承諾されたということである。平山家の菩提寺は、長勝寺である。毎年1月15日には翁の記念碑祭が開催されている。
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川副 夘三郎
川副夘三郎は、江戸時代末の嘉永3年(1850)与賀上郷上厘外村の高柳(現在の西与賀町高柳)に生まれた。 幼少の頃は神童といわれ、その後、家人に従い農作業を手伝ったが、朝早くから夕方には星をいただき、その働きぶりは周囲の目をみはらせ、伝えによると、閑叟公(佐賀藩10代藩主)より賞辞を賜ったといわれている。 やがて家業を継ぎ田畑の耕作に従事したが、その精励ぶりはその度を加えた。後に選ばれて村会議員となり地区の世話は勿論、西与賀町の発展に尽くした。 高柳の住民によって、氏の没後その徳を称えて記念碑を建て、毎年お祭を行っている。
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蓮池藩主
鍋島時代の蓮池藩は初代藩主鍋島直澄が甲斐守に任ぜられ、2代直之は攝津守、3代直稱(なおのり)が甲斐守と各代交互に甲斐守と攝津守に任ぜられた。
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蓮池藩第1代鍋島(甲斐守)直澄
在位26年(1639〜1665) 初代藩主として藩制の大綱を定め藩治時代の基礎を築いた。51歳のとき職を嫡男直之に譲り、塩田吉浦に別館を設け余生を送る。剃髪して義峰と号し、寛文9年3月5日吉浦の館で没した。遺骨は西小路の宗眼寺に埋葬。また、延宝8年嗣子直之は塩田吉浦に祠を建て直澄を祀った。現在塩田にある吉浦神社がこれである。
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蓮池藩第2代鍋島(攝津守)直之
在位43年(1665〜1708) 初代藩主直澄の嫡男、24歳で藩主となった。 蓮池藩は小城、鹿島の各藩とともに幕府からは諸侯として認められていたが、本藩の直参と支藩、その他の家中の身分の呼び方でしばしば紛争があり、天和元年には将軍への献上物のことについて本藩から直之が責められ鶴田九右衛門という人が責を負って自殺する事件があったりした。天和3年佐賀藩に「三家格式」が出来て本藩と支藩の間に主従関係が確立し紛争は一応落着をみた。元禄12年2月、蓮池藩は初めて勅使接待役の命を受け、また、宝永元年には江戸城垣修繕工事を命ぜられるなどした事から藩財政は次第に苦しくなり、久間の山林を伐採売却するほか藩士の出米を求めるなどして費用を賄ったことが記録されている。このほか、直之は直澄を祀るため塩田吉浦に祠を建立したのをはじめ北名に八幡神社を建立、小松神社の再建、寺院では神埼町の真教寺、東西の龍津寺を建立などした。享保10年4月28日83歳で没した。
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蓮池藩第3代鍋島(甲斐守)直稱
在位9年(1708年~1717年) 直之の養子となっているが実は直澄の五男である。在位中に勅使接待役の命を受けたり領内が洪水不作に見舞われるなど、藩財政は益々苦しく藩士に銀料を出させたりした。享保2年には家督を嫡子直恒に譲って隠居した。
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蓮池藩第4代鍋島(攝津守)直恒
在位32年(1717〜1749) 若冠17歳で襲封した直恒は歴代中最も不運に見舞われた藩主であろう。 享保17年(1732)西日本一帯に及んだ大飢饉は佐賀平野を中心にして筑前と肥前が最も甚だしかったようである。翌18年にかけ佐賀藩内で餓死した者約8万人と推定され享保16年37万2千人だった佐賀藩の人口は同19年には29万2千人まで減っており約8万人の犠牲者の中、男5万5千人、女2万5千人と目立って男に餓死者が多かった。この中には蓮池領民も多数含まれていることは勿論である。この享保の飢饉を最大として公の在任中天災に見舞われること十数回、神埼町、城原町の大火2回、疫病の大流行があったりしている。また、災害凶作のため藩の歳入に欠陥を生じ享保14年には藩士に告諭して大出米を課した。このように苦難の連続の中で直恒は寛延2年10月16日、48歳で他界した。
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蓮池藩第5代鍋島(甲斐守)直興
在位8年(1749〜1757) 直恒の長男として蓮池で生れ20歳で襲封した。直興の代もまた、悪疫流行、天災による凶作が続いており、宝暦6年の凶作では幕府は蓮池藩の江戸神田橋門衛の役を解き、藩は同6年7月から7年4月までに飢餓者のため延57.750人に1人1日1合の米を給した。その他宝暦2年8月11日神埼町祇園祠内に鐘樓を設けて時鐘を打つことを許し、また、宝暦6年12月には町村五人組連坐の法を定めている。宝暦7年5月29日直興没す。 (注)「祇」の左部分は「ネ」で表記される。
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蓮池藩第6代鍋島(攝津守)直寛
在位16年(1757〜1773) 直興の養子となっているが実際は直恒の四男、即ち直興の実弟であり家督を相続したのは12歳の時であった。在位中に菩提寺宗眼寺の全焼、お館の落雷による火災全焼に遭ったほか、3度の天災による領内不作の年があり、また、大坂藩邸は負債のため抵当となった。しかし、暗いことばかりではなく、塩田村の前田伸右衛門という人が村中の幼童青年30余人を集めて文学を教授し、かたわら藩に願って久間の荒地を拓き、米を作って学資とし、後の塩田学寮観瀾亭の基礎を築いたこと。大坂藩邸大目付の河野忠右衛門という人が儒書経解80帙、17史30帙を献上。これは後、成章館に移され藩士文学の用にされた。明和7年1月には神埼町に阿蘭陀(オランダ)舶来品売買商を置くといった記録もある。安永2年7月16日没す。28歳。
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蓮池藩第7代鍋島(甲斐守)直温
在位43年(1773〜1816) 直寛の長男、わずか7歳で家督を継いだ。天明元年4月、旧会所を学寮として藩士を通学させた。この学寮は同4年成章館と命名された。初代教頭は攝津尼ヶ崎の人で栗原嘉十という人である。同じ頃諸国飢饉となり肥前地方も凶作、疫病流行の年が続いた。蓮池藩でも天明7年には飢えた庶民のため神埼町、本町、蒲田津で廉価米を出して救恤している。このように天災が続いたほか、幕命による土木工事請負などが重なり藩財政は極度に悪くなった。寛政中期頃には負債のため領地は概ね抵当となったと記載されている。 また、この時代になるとロシア、イギリスの艦船がしばしば我国の近辺に出没するようになり、時には長崎にも侵入するなど世情はようやく騒がしくなってくる。幕命によって伊能忠敬が全国測量図を作るため蓮池城下、蒲田津を測量したのは文化9年9月21日である。
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蓮池藩第8代鍋島(攝津守)直與(なおとも)
在位29年(1816~1845) 直温の養嗣子、19歳で蓮池藩主となる。寛政・享保時代藩財政の窮乏から藩治が弛緩していたことを嘆いた公は藩主になるとともに理財のことに意を注いだため数年ならずして財務情況は好転しはじめ、文政10年には藩士給禄の部割を減らし、諸礼式等を享和以前に戻すことが出来た。また、官吏を督励して文武を勧奨する一方、信賞必罰を徹底したため藩風は大いに引締った。弘化2年嫡子直紀に家督を譲り、東館の近傍数町の地を游園にして天賜園と名付け、また、塩田から大石を運ばせて天賜園に建て自ら詩十律を書いて彫らせた。これが雲菴道人帰田之碑である。いまは蓮池公園の中に移し替えられている。 直紀に家督を譲ったあとも時勢の動きをよく読みとり直紀を助けて防備のため武備を拡張し、大砲数十門を鋳造した。これに要した銅鉄は領内に厳命して所在の梵鐘、士民の什器を徴収するなどした。 直與はまた和漢の書を好み、詩文書から歌音楽までよくした。その自ら著したものは次のようなものである。 「朝聞日鈔 思草 金石堂誌稿」「夜読偶鈔 雑抄 天賜園製薬誌」「真名鏡 印書 精選百家声巧」「佛蘭察誌 臨書帖 弓箭大双紙」「書画帖 志迺婦草 柳暗花明村舎詩」「推敲録 医書抜録 欧罹巴諸図」「左傳抜録」「歌集」「古風抄稿 金石堂臨末帖」
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蓮池藩第9代鍋島直紀 (なおただ)
在位26年(1845〜1871) 直與の長男、20歳で蓮池藩主となった。嘉永年間から安政年間にかけ幕府は欧米諸国の求めによって各国と和親、通商の条約を結ばざるを得なくなる。一方国内では尊皇攘夷論者の活動が活発化していき、幕府の威信は次第に低下していた。しかしこの時代の蓮池藩ではまだ殆んど動揺は見られない。 嘉永5年2月28日夜、成章館は家老石井玄蕃方から出た火で類焼した。安政2年4月15日には佐賀藩医大石良英を招いて藩主夫人と庶妹4人に蓮池では初めて種痘を受けさせている。 幕府は諸外国との交渉が度重なるに従って沿岸警備を厳しくするよう諸藩に命ずると共にその取扱いについては国際問題を引起さないようしばしば注意を促していたが、万延元年11月9日、蓮池藩から長崎港外伊王島へ派遣していた戊兵が長崎市内で外人と争い、2名は外人に捕われ、1名は伊王島へ逃げ帰るという事件を起した。この事件で藩は本藩に詫び、佐賀藩は外人と争った3名を斬罪に処するとともに連累者2名を牢人にした。蓮池藩はこれに服するほかなく全く不名誉なことであった。 慶応2年6月成章館はその名を育英館と改められ、同年9月2日には加与丁、魚町間の架橋が成った。 慶応3年10月14日、将軍徳川慶喜は大政を奉還し、同年12月9日に王政復古の大号令が発せられた。以後日本国内の政情は急展開をするのである。即ち、翌明治元年5月9日、東北諸藩親征の勅書が出され、10月5日には蓮池藩も石井靱負を大組頭として総数545名が奥州へ出兵するのである。さらに明治2年6月17日、かねて願い出ていた藩籍奉還が認められ藩主直紀は知藩事に任ぜられた。特記すべきことは、佐賀藩の許にあった三支藩がここで初めて本藩を離れ独立した藩として認められたことである。しかしこの時はまだ藩政が残されてはいたが旧来の領主権はなくなっていた。ついで明治4年7月14日廃藩置県の詔勅が出、7月20日、蓮池藩は蓮池県となり藩知事鍋島直紀は職を免ぜられて、あとは大参事であった成富清記に県務は譲られた。この日をもって初代鍋島直澄以来232年続いた蓮池鍋島時代は名実とも終を告げた。 藩政をすべて政府に返上し、無官となった直紀は、明治4年9月8日、蒲田津から船で諫早に出、長崎から再び船で横浜に上り、同月19日、東京麻布龍土の私邸に移った。
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売茶翁
売茶翁は俗名を柴山元昭といい、蓮池藩に仕える武士の子として西名に生れた。 少年の頃、東ノ巨勢、龍津寺に学んだが上洛して宇治の黄檗山万福寺に入り、のち諸方を行脚して再び京に帰り、享保20年、61歳のとき、東山に「通仙亭」という茶亭をかまえた。 『落栗物語』という書物によれば、頭はまるで、まっ白な蓬(よもぎ)を頂いているように白く、髭はひざにまで届きそうであった。大きな篭の中に茶を煎じる道具を入れ、それを荷なって風情のある所で茶を煎じ、「茶銭黄金百鎰より半文銭まではくれ次第、只のみも勝手、只よりは、まけ申さず」と貴賤の区別なく、茶を振舞ったという。 売茶翁の偈語(げご)の中に「相国寺にあそび楓樹の下で茶を煎ず。」というものもあり、「大典禅師をたずねて相国寺におもむいた。」ともある。翁はいつも大きな籠を背負っており、その中に入れられた18種の道具には高僧文人の詩文が書き込まれていたと言われる。 煎茶道の開祖と言われる。 生家は、西名道畹端にあったがのち北名に移り、現在建物の一部は大橋(大宝家)に残っている。
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原口進兵ヱ尚昌
故原口直太氏の祖父に当り先祖は太田鍋島の重臣で太田村(諸富町)に住んだ。明治元年鍋島監物の軍に従い江戸平定より東北各地の戦に従軍し戦功あり。
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樺島政江都 トコトコ政市たん
1844〜1935 蓮池の庄屋筋の家に生まれたが、7歳の時疱瘡にかかり、失明した。その後長崎に修行にでたが、生来陽気な性格で音曲に興味をもち、三味線を弾くようになった。三味線を抱えて門付けをするようになりトコトコ政市タンと親しみをこめてよばれた。蓮の池節の作詞・作曲をした。 晩年は九州座頭会の会長もつとめている。
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鵜池四郎
1901〜2001 理研農産化工創業者 神埼郡蓮池村に父・健一、母・ニヨの長男として生まれる。家業は、米殻・肥料商を営んでいた。10歳で父に死に別れ、叔父たちの庇護のもと、行商にせいを出した。19歳で鵜池商店を設立し、肥料の取り扱いおよび、精米業に進出し、その後製油・製粉・製麺工場を建設。昭和23年47歳にして理研農産化工(株)を設立した。
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江崎利一
1882〜1980 グリコ会社創業者 神埼郡蓮池村に父清七、母タツの長男として生まれる。家業は薬の行商であった。大正8年グリコーゲンと出会い、栄養菓子グリコを作り、1粒300mの宣伝文とおまけサービスで業績をのばした。順調に利益があがると利益還元として「母子健康協会」などを設立、社会奉仕の実践を続けた。昭和28年佐賀市にグリコ九州工場をつくり郷土の産業に貢献した。生家は蓮池町に寄贈され現在は公民館として使用されている。
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成富椿屋
成富鵬といい、旧蓮池藩士。初め画を佐賀の中島藍皐に学び、書を大徳寺の僧鉄翁及び、のち画を木下逸雲に学ぶ。さらに長崎に遊び南宋画を修めた。 有田にも滞在して陶画の下絵、絵手本などを多く残している。明治33年皇太子殿下佐賀市行啓の時、御前において松鶴の画を揮毫した。墓は蓮池の淨国寺にある。 また、淨国寺が火災で焼失しその再建の時、檀家であった椿屋は、その資金捻出のために絵を寄進した。淨国寺ではその絵を売って建設資金としたため蓮池の分限者が買い求めた。○円椿屋と呼ばれ町内にも数点残されていると思われる。 北名では成富椿屋の屋敷を成富屋敷と呼んでいた。 絵師として名高い椿屋さんを彷彿とさせる。
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永田暉明
1838〜1923 旧蓮池藩士、天保9年9月29日蓮池村に生る。碧桐又は有終と号し、詩文に長ず。慶応元年東都に遊び聖堂に学ぶこと2年、維新の際東西に奔走して国事に尽す所あり。明治4年廃藩置県後、蓮池大参事、続いて大属となり神埼郡長、県会議員を経て明治29年8月佐賀市長となる。(第3代佐賀市長)37年芙蓉詩社を起こして後進を指導した。
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中野子徳太郎
明治5年、上分曲里に生まれた。同20年4月佐賀市有隣館に入学普通科を修了し、24年9月東京国民英学会に入学、25年9月早稲田東京専門学校に転じ、英語、政治科を学び28年卒業した。さらに欧文正鵠館に入学し英語を数年間研究して帰郷した。29年佐賀市西肥日報社に入社し大いに健筆を振るった。33年4月から西肥仏教中学英語教員の嘱託となった。 38年推されて県会議員に当選し、かたわら北方炭礦傭船ノルエー汽船ブリマ号の事務長として、日本及び清、韓の各港間を巡航した。42年3月県議に再選され、4月に副議長に推され、以後連続4期当選し、大正6年4月議長となった。この間一方村では明治43年、村長に選ばれ村政の功績も顕著で村民の信望も厚く、その高名はつとに県下に知られ、村民の期待も大きかったが、不幸にして大正11年12月、51歳で病没された。
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柴田徳一
明治4年8月堀立に生まれた。明治23年佐賀中学尋常科を経て、8月特別認可私立東京法学院へ入学、26年7月邦語法学科を卒業して39年会計検査院属に任官、40年官を辞して帰郷した。同年村長に推挙され、43年病気のため辞職した。 大正8年9月佐賀郡会議員に当選し、郡制廃止に至った。大正10年佐賀県会議員に当選し、14年3月再選、また昭和2年1月兵庫村長に推挙され、その後村長の職にあること実に20年に及んだ。終戦による追放令で村長を辞めたが、誠心誠意村の発展に努力された功績は多大である。
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中野子功
豪農中野子徳太郎の長男として明治38年9月11日伊賀屋に生まれた。資性豪邁で才能衆に秀で、佐賀中学を卒え早稲田大学に学び、昭和3年7月兵庫村役場に奉職した。父は前記の通り県会議長として県政に貢献したが、この親にしてこの子あり、その才幹はつとに村民の注目するところ、昭和8年には村警防団長に推され、同11年には兵庫村助役に抜擢された。時に年令33歳であった。政治的手腕と行動力はよく村民を誘導し、中央教化連合会より教化村に指定されたが、これは氏の功績によるといえよう。昭和13年3月県会議員に当選したが、病身の村長を助け村治の責任を一身に負い、また翼賛壮年団長、八田江水利組合議員、県参事会議員などの要職を兼ね、東奔西走寸暇もなかった。特に教育教化の面に、氏は本村の伝統を守りその実績をあげた。しかしその体力には限界があった。村会終了の後、俄かに健康を害し病床についたが、昭和20年5月13日忽然として他界された。父中野子徳太郎氏も51歳の若さで村長、県会議長の現職のまま逝去されたが、氏もまた議員在任中41歳でその才腕を惜しまれつつ他界された。
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小野哲一
明治28年1月、若宮で生まれた。大正9年東京帝大法学部政治科を卒業し、同年12月横浜正金銀行に入社し、同銀行の本店ならびにニューヨークなど海外の支店長、支配人として活躍し、頭取席、東亜部次長を最後に昭和21年8月、同銀行を退職された。 しばらく門司市の岡野パルプ株式会社の取締役を勤めたが、同年10月郷里に帰り、佐賀市長として連続2期8年にわたって町村合併の困難な市政を担当して、その大役を果し大佐賀発展への基礎をつくった。昭和42年2月、73歳を以て逝去されたが、生前の功績によって勲五等に叙せられ瑞宝章を授与された。