検索結果 RESULT
[神社仏閣][寺][諸富町]は23件登録されています。
神社仏閣 寺 諸富町
-
明円寺
浄土真宗本願寺派 山号 光雲山 本尊 阿弥陀如来 開基 元祐教師 沿革 当寺は元祐教師によって創建され、第3世泰円のとき、明暦4年(1658)良如上人より蓮師御影をうけ、第4世孝意は延宝3年(1675)寂如上人に願って祖師、太子、七高僧の御影を、続いて同8年には木仏の下附をうけて寺号の公称を許された。 明治7年(1874)佐賀戦争の兵火によって本堂、庫裡を焼失したが明治12年(1879)第14世靈妙によって4年の歳月をかけて同16年現在の本堂が再建された。 7間4面の見事な本堂は当時建築の最高の技術が施されている。幸いにして本尊、延宝2年(1674)作、絵像、並びに元禄時代から記された過去帖は焼失を免れ現存している。
-
教楽寺
浄土真宗本願寺派 山号 光雲山 本尊 阿弥陀如来 開基 崇伝教師 沿革 当寺は豊前の住人、僧崇伝禅門をおこし、この地に草庵を建てた。 第4世宗益寛保元年(1741)浄土真宗に帰依し、光雲山教楽寺と号した。 寛政9年(1897)に山門が建立された。 第8世明応の時代、北陸の地より親鸞聖人御影像1基来迎、その厨子とともに本堂に安置されている。 昭和43年2月1日本堂及び庫裡が新築され、境内地の整備等が行なわれた。
-
禮敬寺
浄土真宗本願寺派 山号 大堂山 本尊 阿弥陀如来 開基 泰源教師 沿革 当寺は僧泰源教師によって創建されたことになっているが、その僧以前は不明のため泰源教師を第1世とした。 現在地はもと真宗正蓮寺末正福寺があったところで、明治7年頃までは正福寺住職林靈源師であったが、その後鹿児島か熊本方面に移転されたので、大堂内にあった禮敬寺が第8世観月住職時代、明治9年頃現在地に建立した。
-
法泉寺
浄土真宗本願寺派 山号 瑞鳳山 本尊 阿弥陀如来 開基 善祐教師 沿革 三養基郡坊所村の領主池田藏人助義幸(坊所肥後守)の子坊所藏人大輔は、龍造寺隆信に仕え、その一族西村、中村、馬場、吉田等三百余名とともに橋津村に陣し、大友勢の水軍をむかえて奮戦大いに戦功をたてたが戦死者を多くだしたので、その一族の菩提を弔うために、その子刑部左衛門善教出家して善祐と号し当寺を創建した。 本堂は享保12年(1727)第7世靈山のときに再建されたものであったが、白蟻と台風の被害で、昭和48年3月本堂および庫裡が改築された。
-
西覚寺
浄土真宗本願寺派 山号 瑞徳山 本尊 阿弥陀如来 開基 正善教師 沿革 当寺の祖先は藤原鎌足に発し、その孫吉田因幡守正広は天文年中(1532〜1554)龍造寺の家臣となり各所の戦いに参加、戦功あり大いに武門を立てて重用された。 その子吉田左衛門大夫正善は病気のため、龍造寺隆信と島原の乱に出陣できなかったが、弟吉田又次郎正行は、17歳の若さで出陣し、隆信戦死の際又次郎も討死した。 後正善は主君の菩提を弔うため出家し正善と号して一宇を建立した。今もなお隆信公の位牌を安置してある。 現在の本堂は第10世照道教師の代、弘化2年(1845)に建立されたもので、8間4面の堂々たる建築物である。第12世法爾は鐘楼を建立した。 本尊阿弥陀如来は渡辺康雲の作で寂如上人より下賜されたものである。吉田家の系図、古文書等が現存している。
-
蓮光寺
浄土真宗本願寺派 山号 宝池山 本尊 阿弥陀如来 開基 超岸教師 沿革 当寺は本堂7間4面、庫裡七十余坪を有し、本尊阿弥陀如来は康雲作といわれていたが、火災にあい由緒は詳びらかではないが、超岸教師は天文(1532〜1554)の頃より浄土真宗に帰依していた。 過去帳によれば慶長年間、一宇を建立して教化にあたっていた。第2世休岸、延宝2年(1674)木仏、寺号の御免書及び太子、七高祖御影を寂如上人より賜った。第3世超海、享保15年(1730)祖師御影をうけた。明治23年(1890)鐘楼が建立され、大正12年(1923)本堂屋根の葺替を行った。 宝物としては親鸞聖人真筆1幅、蓮如上人の六字名号1幅、本如上人真筆1幅等があったが昭和20年8月5日の戦災で本堂、庫裡全焼のため焼失した。 昭和30年本堂、庫裡等が再建された。地獄絵図8幅は疎開により焼失をまぬがれた。
-
正立寺
浄土真宗本願寺派 山号 日溪山 本尊 阿弥陀如来 開基 了益教師 沿革 当寺は中興時代記録等一切焼失し、詳びらかではないが了益教師(俗名藤原秀時)の開基といわれている。藩政時代には狩猟の時や巡遊の途次には藩主が参拝、休息されたといわれていた。 本堂は明治17年(1884)第15世洞観教師により改築され、総ケヤキ造りで大いに宏壮をきわめた建物であったが、昭和20年8月5日の戦災で鐘楼門のみを残して焼失した。その後本堂庫裡も再建された。 鐘楼門は相当古く精巧をきわめ、神社の門ではないかといわれ、修理もなり偉観を呈している。
-
西蓮寺
浄土真宗本願寺派 山号 竜田山 本尊 阿弥陀如来 開基 了俊教師 沿革 当寺の沿革は詳びらかではないが、肥後より来て出家して了俊と号し、堂宇を建立した。 当地方においては古寺の一つである。 宗祖御真影は延宝4年(1676)に下附され、六字名號は本願寺第14世寂如上人の添書がある。現在の楼門は明治5年(1872)慈広寺より移されたものである。 寺宝として過去帖、古文書等がある。
-
専念寺
浄土真宗本願寺派 山号 無量山 本尊 阿弥陀如来 開基 玄金教師 沿革 玄金教師は大和国式下城主兵部小輔、小杭丹後守源助の嫡男で、幼少の頃より文武にすぐれ、石山本願寺の戦に参加、龍造寺隆信に招かれて現在の地を拝領、堂宇を建立した。 万治年中(1658〜1660)清円教師の頃より塾を開き明治初期まで子弟の教育にあたった。 本尊の阿弥陀如来は東川副清行寺(西光寺)より明治時代に移されたものだといわれている。藩主から6枚屏風等を拝領したが、昭和20年8月5日の戦災にあいすべて焼失した。昭和25年4月本堂、庫裡を再建、昭和56年には庫裡が改築された。
-
妙光寺
浄土真宗本願寺派 山号 無量山 本尊 阿弥陀如来 開基 正音教師 沿革 当寺は中途火災のため建物、寺宝などことごとく焼失した。本尊の阿弥陀如来は行基菩薩の作と伝えられ、きわめて精巧にできている。第2世正西教師のとき蓮如上人御影を准如上人より賜り、第4世正純教師は良如上人より寛文元年(1661)太子、七高僧御影をうけ、第5世宗純のとき田畠を買入、祖師の御影、寺号の御免書を寂如上人より賜り、文政10年(1827)9月本堂を再建した。 楼門は為重家の門、鐘楼は新北神社の太鼓堂だったともいわれている。 寺宝には「親鸞聖人御真筆の名号」がある。
-
光専寺
浄土真宗本願寺派 山号 護命山 本尊 阿弥陀如来 開基 教明教師 沿革 教明教師の祖先は清和天皇、貞純親王にはじまり、源の姓を名のり、武田刑部小輔太郎信重をへて甲斐刑部小輔信堯は細河讃岐守に属し、肥後(御船城主)に住しその子甲斐民部大輔神四郎は、大永年間(1520~1531)肥後より来て万行寺で修学、その後肥前に住し、出家して教明と号し、荒蕪不毛の地を開拓し一宇を建立。のち3畝21歩を拝領して光専教寺を開いた。当国真宗最初の道場といわれた。教明民部入道83歳の高齢で天正16年(1588)6月1日卒した。代々長寿者で知られている。 本尊の阿弥陀如来は鎌倉仏で源信僧都の作といわれ、すこぶる精巧を極め、有名である。 その他、「甲斐家系図」「寺井末代定置状」「年中雑記録」「御舎利」「名号入りあわび」「懸仏」「本尊再興記」「大友宗麟の援助依頼状」等多数の古文書や旧国主松平丹後守寄贈の「金光明最勝王経(全10巻)」が現存している。
-
万福寺
浄土真宗本願寺派 山号 定良山 本尊 阿弥陀如来 開基 慶昭教師 沿革 慶昭教師の祖先は九州の探題職今川了俊より数代をへた義秋(信秋)の代に居城を建造し、姓を定良と改め、この地を領していた。 のち千葉氏との戦で戦死、その子満秋も船橋の戦で鹿江氏のために戦死した。その墓石は鹿江村にあるといわれている。満秋の子慶昭は父の死後僧侶となり城を寺院となし、定良山万福寺と号し、祖先の菩提を弔った。 開基の駿河守は法号を満福と称していたので寺号を万福寺と号した。 本尊の阿弥陀如来は春日の真作で駿河守の守御本尊で、当寺に本願寺の教如上人が止宿されてから、浄土真宗に改宗されたといわれている。 寺宝には「寺井由来」の記録文書等がある。
-
光徳寺
浄土真宗本願寺派 山号 普耀山 本尊 阿弥陀如来 開基 西願教師 沿革 西願教師は高木瀬の出身で真宗の教義に帰依し当地にきて一宇を建立した。 第3世尊隆の時准如上人より寺号の御免書を賜り光徳寺と称した。 第5世宗雪正保2年(1645)12月、太子、七高僧、准如上人等の御影を寂如上人より賜り、木仏の御下附をうけた。 第8世岱樹は元文4年(1739)3月楼門を建立、延享5年(1748)には蓮如上人御影を法如上人より賜り、本堂修築等中興の実をあげた。しかし失火のため全焼したが嘉永元年(1848)本堂を再建した。当時の建築技術の偉大さが残されている。
-
円光院
真言宗御室派 山号 宝珠山 本尊 聖観音菩薩 開基 不詳 沿革 当寺は350年前の創建といわれているが、中興時代に火災にあい全焼し一切の記録を焼失し事蹟を知る事は出来ない。現在の堂宇は昭和2年3月25日改築されたものである。脇仏としては薬師如来像弘法大師像が安置してある。 境内には元禄年中の六地蔵等がある。
-
安竜寺
真言宗御室派 山号 金剛山 本尊 薬師如来 開基 行基菩薩 沿革 当寺は長福密寺といい、行基菩薩の草創といわれ、七佛薬師尊のうち随一といわれている。行基僧正は筑州において1本の良材を得、これを滄海に放って、この木の止まるところに仏像を造って地方の平安をはかろうとされた。放流された尊木は寺井津に漂着したので、瑠璃光の像7尊(川副七仏)を刻んで7か所に道場を開きこれを安置した。当寺はその造尊の場所である。 和銅4年(711)行基菩薩の草創といわれる河上山実相院元觸内神通院(東寺井)は、旧藩時代は藩主龍造寺家、鍋島家の祈願所であったが、大正6年8月安竜寺に合併されたので古文書、薬師如来、青銅弁財天、不動明王、弘法大師、愛染明王、十三仏、十二神、大国七兵衛筆の虎絵額、珍しい石造道祖神等がある。
-
多聞院
真言宗御室派 山号 不二山 本尊 毘沙門天 開基 行基菩薩 沿革 当寺は火災にあい記録一切焼失し詳びらかではないが、相当古く行基菩薩の建立によるといわれ、鍋島藩主の祈願所で、毘沙門天像は行基菩薩の作と伝えられている。 脇仏としては、千手観音菩薩、不動明王、弘法大師像等がある。 境内には六地藏一對、室町時代作と推定される一石五輪塔の石造物がある。 応安4年(1371)秋盛武太郎入道昌興の建立昌興寺、同年冬盛武主水介入道昌壽の建立昌壽院は大正3年当寺に合併された。
-
勝浮院
真言宗善通寺派吉祥寺末 山号 善祥山 本尊 大日如来 開基 横尾 龍弘 沿革 当寺は昭和24年10月西搦に新北教会を創立、昭和25年12月仮御堂ならびに庫裡を現在地に建立、昭和26年1月諸富教会と改め、昭和30年3月勝浮院として寺格を得た。昭和38年8月現在の本堂ならびに庫裸を改築された。当寺には本尊のほか大僧都法印補陀洛山河運上人、権大僧都法印補陀洛山宥誉上人の碑石が合祀されている。境内は勝茂神社、聖人塚があったので、勝茂の勝と地名をとって勝浮院と号した。
-
永仁寺
禅宗臨済宗東福寺派高城寺末 山号 大堂山 本尊 薬師如来 開基 不明 沿革 当寺の開基は詳らかではないが、下大津の東光寺とともに相当古い寺であると思われる。県立長崎図書館蔵の三潴県時代の各宗寺院表によれば、檀家数15戸、住職馬場教道師とある。
-
東光寺
禅宗臨済宗東福寺派 山号 不明 本尊 薬師如来 開基 不明 沿革 当寺の開基は詳らかではないが、天平年間(729〜765)川副七仏薬師の1体をまつる薬師堂に始まると思われる。 この川副庄、一木七仏薬師如来は行基菩薩の御作といわれ、楠1本で尊形7仏を作られ、参詣者は元木より参り、木の末で参り納めたという事で、川副七仏の1番の堂場が下大津の東光寺、2番が寺井の長福寺(安竜寺)、3番は崎ヶ江の法源寺、4番は米納津の東光寺、5番は南里の正定寺、6番は新郷の本願寺、7番は袋村の寒若寺といわれ、薬師如来像が安置されている。 現在の堂宇は昭和6年5月に改築された。寺宝としては寛文11年(1671)作「天女絵柄入半鐘」紙本着彩「涅槃絵」平渕子 作、「一木七薬師」天平10年作等がある。
-
慈広寺
禅宗曹洞宗 山号 補陀山 本尊 薬師如来 開基 太田美濃守 開山 傅翁大宅和尚 沿革 当寺は清和源氏太田持資入道道灌より5代の孫である太田美濃守資元(浄泉)という人が、享禄2年(1529)一族郎党を従え、川副庄太田郷に下向し、その東部地区を領有し城を太田に築き田中城と号した。 浄泉は龍造寺剛忠に仕え川副東部の守りを固め、鎮守の森に太田六所宮を建立し、天文2年(1533)春日の玉林寺より傅翁大宅和尚を請し、開山第1世とし慈広寺を創建し、ながく香○(萊か)院とした。 創建当時より明治初年までは七堂伽藍が完備し、鍋島家累代の菩提所であったが、明治維新後武家の衰亡とともに寺門も衰え、山門、庫裡、倉庫、禅堂等売却され伽藍の規模を縮少された。 その後大正9年庫裡の再建、大正15年庫裡の増築、本堂の大修理がなされたが往時の面影を見ることはできない。 境内廟所には開基浄泉居士以下、歴代の墳墓鍋島勝茂の姉瑞光院月昌妙高大姉、納富能登守家景の家臣、天正12年(1584)3月島原の乱で戦死した勇士三十余名、鍋島茂貞の家臣寛永15年(1638)正月有馬原城の役に戦死した当家一族の墳墓等がある。 境内には樹齢約500年といわれる大蘇鉄の木がある。また、ビルマ仏ネカル尊像、太田家代々の肖像画、江戸平定出陣中のお供日誌等古文書がある。
-
円城寺
禅宗黄檗宗万福寺派 山号 三重山 本尊 釈迦牟尼仏 開基 崇勝院 寂恵○(棠か)湛大師 沿革 当寺は記録等亡失し、詳びらかではないが、旧藩主鹿島鍋島直彬家より出家し、桂巌老和尚の弟子となり崇勝院寂恵○(棠か)湛大師と号し、三百数年前当寺を建立したのを開基として伝えられている。 大師は正徳5年(1715)9月5日逝去された。現在の堂宇は昭和6年改築され、昭和56年には庫裡等が改築された。 寺宝としては、桂巌作の「両足尊」額、「鬼子母」像、「観音」像等がある。
-
宝光院
天台宗延暦寺山門派 山号 隣江山 本尊 不動明王 開基 龍造寺純家 沿革 当寺は龍造寺左ヱ門太夫隆信公のとき、寺領300石をうけ、純家公の第3子源覚を中興開山とし、藩内宗門の領頭となり、堂宇を建立した。 比叡山延暦寺の九州台徒灌頂の祭場で、当国鎮護結願の道場でもあった。 慶長2年(1597)佐賀城の建造にあたっては第4世源昌師は比叡山より豪仙大僧正を請じて、地鎮祈祷を執行した。 次いで慶長4年(1599)城閣の普請竣工に当っては、城主直茂再び源昌に命じて鎮家祈祷の大典を修した。爾来藩主の崇尊厚く同寺の改築の際には数金の工費が下附された。 当寺には、天台宗根本伝教大師、真言宗開祖弘法大師合筆といわれる不動尊があり千余年前のものだと推定されている。また天保4年(1833)の作と思われる石造大黒天像等がある。
-
妙誓寺
日蓮宗 山号 宝栄山 本尊 釈迦牟尼仏 開基 明教院日運上人 沿革 当寺の開基は日運上人で、寛永14年(1637)島原の乱に敗れ、当地に住し一草庵を建て友の霊を葬い、のち日蓮宗の僧門に入り妙誓寺を創建した。 寛文12年(1672)当国宅、松平丹後守藤原光茂朝臣建立の万部堂(開山堂)には鬼子母尊神が安置、稲荷堂には火車稲荷大明神が祀られている。 堂宇は明治12年頃修築されたが、昭和7年新に改築された。昭和8年には庫裡も新築され、その後楼門が建立された。