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[指定文化財][建造物][赤松校区]は5件登録されています。
指定文化財 建造物 赤松校区
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与賀神社三の鳥居及び石橋 二基
重要文化財
与賀神社三の鳥居は慶長8年(1603)佐賀藩祖鍋島直茂の北方藤女(陽泰院)の奉献になるもので、高さ3.90メートル、笠木の長さ5.65メートルである。肥前鳥居は、室町時代の末期ごろに肥前国を中心として造立された石造文化の一つで、江戸時代初期に最盛期を迎えている。 その形式は、笠木と島木が一体化し、先端は流線形を呈しており、笠木・貫・柱が3本継で、柱の下部は張り出して生け込みとなっているなど、特色のある構造を有している。 与賀神社の烏居は、造立の古いものの一つとして、また、最も典型的なものの一例として価値が高いものである。 石橋1基は、長さ10.5メートル、幅3.15メートル、川床までの高さは中央部で1.78メートルで、両側に高さ56センチメートルの欄干があり、10個の擬宝珠がついている。ゆるい曲線をもつ反り橋で橋脚は3本併立の6列である。擬宝珠の銅板に 肥前州与賀荘 正一位与止日女大明神 …… 慶長十一年丙午南呂彼岸日 鍋島加賀守豊臣朝臣直茂造立之 の線刻銘があり、江戸時代初期の石橋として県内で唯一のものである。
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佐賀城鯱の門及び続櫓 一棟
重要文化財
佐賀城は、龍造寺氏の居城・村中城を鍋島直茂(なおしげ)・勝茂(かつしげ)父子によって、慶長13年(1607)から慶長16年までの佐賀城総普請によって整備拡張されたものである。 この鯱の門は、天保6年(1835)から始まる本丸再建に際し、本丸の門として天保9年(1838)に完成したものである。 本来、城門は戦時の防備に重きを置き計画されているが、建築年代が江戸時代後期でもあり、建物があるべき防備の役割は形骸化が進み、装飾的要素が前面に出てくる。 鯱の門周辺の防備は、門の南北に高石垣が連なり、本来、門と天守台までの高石垣の中ほどから、現在は削平されてしまっているが、北方に向かって土塁が設けられていた。 「櫓(やぐら)」の本来の意味は、「矢倉(やぐら)」=武器庫であり、この櫓の発展形態が天守である。櫓門とは、通用する門構えに2階を上げた形式をいう。 鯱の門に附属している続櫓は、石垣天端いっぱいには建てられておらず、「犬走り」がめぐる。1階部分の左右には、床張りの門衛所があり、また、門内北側には番所が接続されるなど、近世城郭の初期には見られない機能的な形態となっている。 建物は二重二階の櫓門に一重二階の続櫓が配されている。櫓門の正面の桁行は5間(約11.9メートル)、礎石上から棟瓦上まで約12.5メートルを測る。 この門は明治7年(1874)の佐賀の役でも弾雨にさらされ、現在でも弾痕が観察できる。その後、佐賀商業学校の門として同校のシンボルとなっていた。明治以降幾度かの小修理がなされたが、建築から120余年の昭和36年(1961)に、大修理が行われた。 この昭和の大修理の際、部材に大工の氏名や年代の墨書が発見され、この門が移設や転用材を用いたものではなく、本丸再建に伴う新建築物であることがわかった。 鯱は、北方のものが、高さ1.70メートル、重量190キログラム、南方のものが高さ1.75メートル、重量210キログラム、製作者「冶工谷口清左衛門」(刻銘)とあった。谷口家は、佐賀藩の御用鋳物師であり、幕末にはわが国で最初の「反射炉」建設及び運営に活躍した。 鯱の門は、この城門に続く石垣とともに往時の佐賀城をしのぶにたる佐賀城の建物遺構として貴重である。
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与賀神社楼門 一棟
重要文化財
与賀神社楼門は、構造形式から見ると、室町時代前後のものと推定される。『藤龍家譜』によれば、「文明14年(1428)大宰少弐政資が、父教頼(のりより)の旧館を改修して与賀城を築き、与賀神社を城の鬼門の鎮守となし」との記載があり、それと推考される。 その後、文禄5年(1596)大修理を行い、寛文3年(1663)宝暦年間や、幕末及び明治・大正にも小修理が行われた。 最初は柿葺(こけらぶき)であったが、後に銅葺に改められた。終戦後腐朽し建物全体が弛緩したので、昭和25年(1950)11月、文化財保護委貝会の指導を受けて、全部解体し、後世改修していた部分は旧状に復し、根本修理が実施され、同27年(1952)5月に完成した。 この楼門は正面3間、側面2間、白然石の礎石に円柱を建て、中央通りの床を石敷とし、なかに両開框組板戸を設けている。正面の両端間には組格子窓、両側面各間と後面両端間は、板嵌である。 初層の斗栱(ときょう)は四方廻縁(まわりえん)の腰組となって、縁廻をうけている。縁四方には和様の勾欄(こうらん)をめぐらしている。斗栱は廻縁下は和様の連三斗、上層は和様の出組で絵様拳鼻がついている。軒廻は地種、飛檐棰(ひえんたるき)とも疎棰(そたるき)に配置して二軒となって、頭貫鼻、墓股等随所に絵模様彫刻が使われている。 この楼門は軸部、軒廻、斗栱等の大部分の化粧材を丹塗(にぬり)とし、格子組は黒塗、木口は黄土塗である。全体の様式は和様の手法によっているが、細部には唐様の手法も使われている。佐賀県下では現存する最古級の木造建築物であって、極めて貴重な遺構といえる。
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旧佐賀城本丸御殿 御座間及び堪忍所 1棟
重要文化財
〈背景・経緯〉 佐賀城は慶長13年から16年(1608~1611)にかけて建設されたが、享保11年(1726)の火災で焼失し、天保9年(1838)に10代藩主鍋島直正によって再建された。 明治7年(1874)の佐賀の乱(佐賀戦争)で滅失を免れた本丸御殿の御座間・堪忍所は、明治42年(1909)から赤松小学校の校舎として利用され、昭和33年には移築されて南水ヶ江地区の公民館(南水会館)として活用されるなど、用途を変えながらも建物の価値を踏まえた適切な維持と活用がなされてきた。 〈特徴〉 本丸御殿の南西部、藩主の日常生活空間にあたる「内(うち)」と呼ばれる区画の南側奥に位置する。 御座間は中奥に相当する藩主の居間(執務の機能もあり)にあたり、西面に座敷飾を設ける24帖間で、西廊下と南廊下、中廊下が凹形に取り囲む。 警護詰所にあたる堪忍所は18帖間で、中廊下東側に配置されている。 〈指定の理由〉 現在確認されるところ、天保9年に再建された佐賀城本丸御殿を構成する唯一の遺構として、多くの情報と歴史性を有するものである。 また、藩主が日常を過ごした内向きの建物である点も貴重であり、天保年間建設の本丸建物遺構として高い価値を有している。
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武家屋敷の門 一棟
重要文化財
元来、門は出入りする者の身分によって格式があり、上位から四脚門、棟(むな)門、唐門、上土(あげつち)門、薬医(やくい)門、平門、冠木(かぶき)門等の順に定められていた。 この門は、元鍋島家の家臣水町氏の屋敷門として、多良の名工、託田の番匠の手によって建築されたと伝えられている3間1尺の薬医門である。 もともと、薬医門は医師の門として使われたもので、病人の出入りを妨げないように門扉はなかったらしく、後に公家、武家の屋敷等に使われるようになってからつけるようになった。 四角な本柱4本を前方に、控柱2本を後方に立て、その上に切妻屋根を置く。側面から見ると、棟は本柱の真上より後方にずれているのが薬医門の特色である。屋根は本瓦葺で破風には、かぶら、懸魚(げぎょ)その両側に鰭(ひれ)が装飾されている。 軒裏は、棰(たるき)、野地板とも化粧に仕上げられ、裏側の一部には鏡板の軒天井が張られていて、肘木の先端には繰形彫刻が施されている。扉は両開板戸が吊ってあるが、これは後になって取り換えられたもので、当初は引き分けの板戸が建て込まれていた。なお、平成20年度の解体修理で、扉は引き戸に戻した。 用材はすべて欅(けやき)が使われている。建設年代は不明であるが、構造形式から江戸後期と推定される。永い期間風雨にさらされ、本柱や控柱の脚廻りの損傷が処々にみられる。しかし、屋根瓦は幾度か葺き替えられたらしく、棰や野地板の損傷はほとんどなく、普段の管理が行き届いているので脚部を除いた小屋組、軸組材はほぼ原形のまま保存されている。 昭和45年の道路拡幅の折、3メートルほど東へ移設されている。 桃山、江戸と時代が変わるにつれて建築方法も華美に流れていく中で、特に質素を旨とした当時の佐賀藩の気風を表現したこの門は、簡素で均整のとれた風格を備えた武家門として価値が高いものである。