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[建造物][地蔵・銅像・石塔][大和町]は20件登録されています。
建造物 地蔵・銅像・石塔 大和町
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四天社
池上地区の北部、楢田へ通じる道路の北側に小高い築土の上に四天社があり、土地の人は「しっ天さん」と呼んでいる。中央の多宝塔は大日如来を祀り、それを囲んで四隅の石像が四天王である。東方には持国天、南方には増長天、西方には広目天、北方に多聞天の順に建っている。四尊像は等身大に近く、長い年月の間風雪にさらされて一見石塊のように見えるが、よく見ると邪鬼を踏まえて目もと口もとに厳しい表情があり、守門の護法神にふさわしい様相をしている。邪鬼はユーモラスな表情である。中央の多宝塔の軸部は三層になっており、屋上の相輪は宝珠型で、塔礎や屋根には飾り彫りを施してある。初重の軸部の四面には東方に阿○、南方に宝生、西方に阿弥陀、北方に不空成就(釈迦)の四方仏が刻まれていたらしいが、ひどく磨滅していて現在では判然としない。四天王は仏教が起こる以前からインド人の間に信仰されていた神である。 聖なる山として須弥山の頂上に住む帝釈天の眷属で、山の中腹の四方にある門を守護する神とされている。その後仏教的世界を守る神として、密教的信仰が発展した。池上の四天王は現在、神として祀られている。
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馬頭観世音
その名のように頭上に馬頭をいただいているが、当町北原のブロック堂内には弘化3年(1846)になる三面六臂(3面に6本の腕)の立像が安置されている。右上手に宝珠、下手に錫杖、左上手に鑓、下手に斧を持ち、中央の二臂は合掌している。正面頭上に馬頭をいただいた手の込んだ石像である。 都渡城の宝塔山には陸軍大佐堤 清氏による日清日露戦死馬頭観世音の石仏が明治40年(1907)に建てられている。自然石になる馬頭観世音は町内各所に見受けられる。馬頭観昔は六観音の一つで、畜生道に落ちた死者を救うといわれたが、いつからか牛馬の守り本尊とされ、死馬牛の供養や牛馬の安全祈願から人間の交通安全祈願まで及ぼしている。
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六地蔵
一石に六体の地蔵を彫りつけた六地蔵やその上部に六観音を彫りつけた六観音六地蔵は大和町内に多く見かける石仏である。特に寺や墓地等に建てられている。六地蔵尊像はいろいろの種類があるが普通、 (1) 地獄−大定智悲地蔵−左手宝珠、右手錫杖 (2) 餓鬼−大徳清浄地蔵−左手宝珠、右手与願印 (3) 畜生−大光明地蔵 −左手宝珠、右手如意 (4) 修羅−清浄無垢地蔵−左手宝珠、右手梵篋 (5) 人間−大清浄地蔵 −左手宝珠、右手施無畏 (6) 天上−大堅固地蔵 −左手宝珠、右手経冊 の姿をしており、亡者が六道にあって良い世界に生まれ変ろうとする苦しみを救ってもらうためそれぞれの地蔵に願う現われが六地蔵となっている。町内で紀年銘のわかっている古いものは次のとおりである。 横馬場光明寺(廃寺)跡天文2年(1533)今山徳運寺(廃寺)跡 天文3年(1534)7月、久留間蔵福寺境内 永禄4年(1561)川上宿裏(北側)天正5年(1577)8月、同(南側)六観音六地蔵 天正7年(1579) 観音、地蔵合体の信仰は鎌倉中期ごろから行われていたといわれるが、この種のものは外に駄市川原の北村天満宮境内、玉林寺境内、上戸田宝円寺境内、大願寺公民館東側等に見られるが探せばもっとあるだろう。池上地福寺境内の六地蔵は角柱で、正面と裏面に2体ずつ両側面に各1体が彫られている。 六地蔵建立の趣旨は、多くは2世安楽や冥福を祈念したものである。個人で建てたりあるいは久留間や水上の六地蔵(享保9年=1724)のように「村中」で建てたものもある。川上宿裏にある天正5年の六地蔵は妙林禅尼のためと判読され、天正7年の六観音六地蔵は天文14年(1545)正月、淀姫神社境内で謀殺された龍造寺一門(家純、家門、純家、その家来達)の霊を慰めるために建てたことが定説のようになっていたが、石柱を見ると「天正七稔、為道縁禅門、十七回忌、十一月廿七日」の刻字が判読される。この年忌を逆ると永禄4年(1561)に相当し、この年は都渡城、川上宿一帯で神代勝利と龍造寺隆信の両軍が決戦した年である。この戦に関係あるかどうかは不明だが、今までの言い伝えとは関係なさそうである。この六地蔵は始め淀姫神社の境内にあったものを宿裏三方道に移し更に現在の地に移し変られたものである。
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勝軍地蔵
甲冑武人が馬に乗った姿のものを勝軍地蔵又は愛宕様と呼んでいる。当町では駄市川原の智徳寺境内に愛宕さんと称して祀られている。明治2年(1869)の建造で、この種の石神は町内では珍らしい。京都愛宕山の将軍塚に地蔵を祀ったのが始まりで、将軍が勝軍になったのはその名の縁起をとってのことであろう。伝えるところによると忠臣蔵の大石良雄は吉良邸討入りの成功を勝軍地蔵に祈ったという。昔、朝廷を始め武家の間でもこれを祈念すれば必ず勝利を得るとして信仰されていたようである。智徳寺愛宕さんへの参詣者に受験生が多いのは合格必勝の功徳を念ずるためであろう。
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五輪塔婆
五輪塔は密教(真言)で創始された塔形で、我が国では平安期の中期以後から墓標として用いられ武将や名僧の墓に多く見られる。その形は下部より方、円、三角、半月、団形の五輪からなり地輪、水輪、火輪、風輪、空輪を表わすものとされている。
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鎌倉さん
春日の高城寺墓地である前隈山頂上に建てられていたが、今は県立博物館に移されている。文永7年(1270)執権北條時宗が敷地山林を寄進し、久池井の地頭である国分次郎忠俊が高城寺を創建したが、この五輪塔は「鎌倉さん」と呼ばれていて、国分次郎忠俊の墓ではないかといわれている。鎌倉時代後期の作で、優美な格調高い五輪塔として、県内では他に比肩するもののない価値の高いものである。
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蚕神さん(実相院)
実相院の中門右手に大きな石像がある。女神の姿をしており、左手に繭を持ち、右手には絹糸の束を持って馬のそばに立っている。又、大久保にあるのは女神が馬に乗っている半身像で、大正15年に建立されたものであるが、これは「蚕神」とはっきり刻んである。 蚕については、魏志の「倭人伝」に邪馬台国では「桑を植え、蚕を飼い、絹をつむぎ」と記しているので、我が国は古くから蚕を飼育したことは間違いない。養蚕は中国から伝わったものと考えられている。蚕神は馬とどういう関係があるだろうか。これについては安田徳太郎著「人間の歴史」4の中から要約すると次のとおりである。 群馬県の養蚕地では、蚕室の壁や天井に「馬頭観世音」と書いた札をはってあったそうだが、そのいわれは「馬は跳ね上がるから、早くあがる(上簇)ようにカイコは午の日に掃き立てる」ということからきているという。しかし、これだけでははっきりしないが、中国の「図経」という本に 『大昔、中国の「蜀」という国に一人の娘がいた。その娘の父が敵に捕えられて獄につながれたので、その妻が、夫を救い出した者を娘の婿にするとふれた。この時この家に飼っていた馬がこれを聞いて4,5日の後、夫を救い出して帰ってきた。そこで馬は約束どおり娘の婿になれると思っていたが、父は「これは人間が助けた時の話で、別に馬と約束したわけではない」といった。馬は気が狂ったようになり、家の中にあばれ込んだり、娘のたもとをかんだりするので、父は怒って馬を射殺し、その皮をはいで庭にさらしていた。するとどこからともなく一陣の風が吹き起こり、その皮が舞い出して、庭にいた娘を巻き込んで空高くとび上ってしまった。10日ばかりしてからその皮が飛んできて、庭の隅にあった桑の大木の枝にかかったかと思うと、その皮の中から一匹のカイコが出てきて桑の葉を食べ、やがて繭をはった。その糸をとって機にかけたところ、美事な絹織物ができあがった。ところがある日、その木の上で美しい音楽が聞えるので見上げると、そのカイコはいつの間にか元の娘の姿になり、例の馬にまたがり、前後に数10人の男女を従え、父母を見ながら「義を重んじて約束を忘れず、馬の望みに従ったので、自分は天帝のそばにいて天人の群に加えられた。どうか安心されたい。この度は御用を終わり天に帰るが、重ねて天下る時は、あまねく徳を施そう。」というやいなや天へ上ってしまった。夫婦はそれから馬のくれたカイコを飼って、蜀の人々に養蚕の技術を教えた。そして毎年カイコを飼う者が近所からおしかけて、この娘を崇めたが、後にはこの娘を像に刻んで、馬の皮を着せ、馬頭娘と名づけて、カイコの神とするようになった。』 という伝説がのっている。この伝説はカイコや養蚕技術と共に、中国から古代日本に伝わってきて、日本ではこの馬頭娘が蚕神として、養蚕家の信仰となったのではないだろうか。
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桧垣塔
多くは凝灰岩等の軟かい石で屋根瓦や棰等が木像塔のように細かに彫刻され、桃山、江戸時代の庭園等に使われた。元来は仏舎利(釈尊の骨)を納めた塔である。当町では春日の高城寺裏庭に不完全ながら1基と、池上四天社の中央大日如来である。この桧垣塔は基礎と第1層の軸部と3つの屋根が残っているが、第2、第3層の軸部や九輪はなくなっている。
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金精さま(与止日女神社)
自然石又はこれに人工を施した男根、女陰の形をしたもので、男性・女性の象徴を神として祀ったのが古い昔から日本の、特に僻地山村に多く見られるようである。当町ではこの両方を兼ね備えたものが松梅の梅野神社境内にあり、又淀姫神社の藤棚の下に男根をかたどった雄大なものが横たわり、土地の人は〇〇〇〇石と呼び、淀姫さんが女神だからと意義づけている。井手原の弁財天社にも見られ、松梅小学校傍らの天満神社にも石段を上りつめた右側に立っている。 金精さまは本来、性の神でそれが生産神となり、所によっては邪悪の神を塞ぐ塞神としても祭られた。形からみて初め、庶民の縁結びの神であったのが次第に性病平癒祈願の神となり、金精さまや勢玉尊などと呼ばれるようになった。やがて地方によっては、子宝に恵まれぬ婦人がひそかに肌を接すると子宝を得るという信仰にまで発展した。原始時代から石や樹木や山そのものに神霊がこもると信じ、特に石に寄せた信仰は根強かったようで、自然石が異常な形をしているものや巨岩等により強い神性を認めていたようである。
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弁財天
当町では大久保に弁財天があり、又井手原の国道263号線の傍ら高段に弁財天を祀る社がある。井手原弁財天社の拝殿の奥には高さ1.5m、幅約1mの自然石及び高さ1.8m、幅1.2m余の石の小蔵があるが、その小蔵に次の文字が彫りこまれている。 辨財尊天座殿乙宇募縁造立秋天下和平民安楽 天明七(1787)丁未四月上巳日 真手山健福寺法師姉実識 昔、この弁財天の下の渕で、筑前の国の商人が牛に塩を荷なわせて渡る時転んだので「塩びたしなたか渕」といったという。そこでこの弁財天を「塩びたしの弁財天」ともいい、奥の岩石の割れ目に白色や茶色等の蛇が棲息していると伝えられている。毎年旧4月の第1巳の日には、農家は豊年祈願のため参詣者も多かったという。弁財天は妙音天又は美音天とも称し、歌詠・音楽を司どる神とされ、あるいは福徳、智慧、財産を与える神として七福神の一に数えられている。その姿は頭に蛇を巻き琵琶を弾く美女の絵が多く、海辺、河辺、池のほとりに多く祀られ、白蛇がその使者だと言われている。古人は蛇を水神としていたようで、蛇と関係を持つ弁財天も多く水辺に祀られたのであろう。井手原弁財天社の拝殿の楯はよく見ると「白蛇」という字をかたどっているようである。
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荒神
「荒神(コウジン)さんは荒神(アラガミ)さんで家の回りに夜小便をすると回り荒神にとがめられる」とか「旅に出る時は荒神さんを拝んで行けばけがあやまちをしない」とか子どもの時からよく親にいわれ恐れていたものである。荒神は一般にかまど神としてくどの近くに神棚を設け、かまどの形を粘土で作り神棚に上げており、家ごとに祀られている場合が多いが、地荒神として屋敷内に祀っている場合もある。石神としての荒神は当町では稀であるが、大久保の堤氏屋敷の入口にある石神は青面金剛といえばいえないこともないが荒神の石神ではないかとも思われる。その姿は三面八臂で弓、矢、剣、矛等を持った立像である。頭は一見馬頭観音風に見えるが馬頭ではなく、髪の毛が焔のように逆立った焔髪である。荒神を信仰すれば福禄を与えられ長生きが出来るとか、一家和合の神とか、火の用心の神とか、けがあやまち等の災難を免かれる等その功徳を信じて、正月にはくどの形をしたナマコ餅を供えたり、農家では稲束三ばを供える所もある。
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大日如来と天照大神(平野の権現社)
大日如来を「マカビルシャナ」といい、真言密教では光明に輝く絶対の仏の意としている。金剛界大日如来(智法身)と胎蔵界大日如来(理法身)の二身があって、共に宇宙万物を育てる仏であるとされている。大日如来は高く髪を結い天衣をまとい、宝冠首飾り等をつけた美しい姿である。日本人は古来水の神、風の神、火の神、山の神等のように自然を崇拝してきた。民間信仰では日輪を仏としたのが大日如来で、神としたのが天照大神である。今なお朝起きて東方に向かい拍手して拝むのは日輪信仰の姿である。庶民の信仰の中の大日如来は疫病を退散させる本尊として祀られるようになった。大日如来の石仏、天照大神の石神は町内各所に見られ、平野の権現社境内には「天照大神宮 村中 寛文四年」の紀銘のある自然石が建ててある。地区によっては毎年4月28日「大日さん祭」又は「大日さんごもり」といって今もその祭りが行われている。戦前までは所によって伊勢講田を経営していた。応永のころから京都の公家貴族に始まり、時代が下るにつれ農村へと浸透していった。郷土でも天照大神信者による伊勢講が組織され、祭祀費や伊勢参りの資金作りに講衆によって共同稲作等が行われていた。
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河上神社三重塔ほか
国分寺には七重塔(木造)が建てられていたが、河上神社にも三重塔(木造)が建てられていたことが河上神社文書で明らかであるが、現在その塔の心礎といわれるものが、社前向かって左側にあり手水鉢の形をしている。その形状は長径1.5m、短径1.35m、厚さ63cm(地中の分不明)で造出はなく、柱穴の中央の舎利孔は径9cm、深さ10.7cmである。一般には心礎の周囲に一片が5個の正方形に16個の礎石が配され、中央の心礎と合わせて17本の柱によって塔が建てられたのである。大願寺廃寺跡に2つの穴がある大礎石がある。門礎とすればほぞ穴と思われ、塔心礎とすれば舎利孔ではなかろうか。門礎にしては礎石が大き過ぎるようである。
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庚申塔
町内の庚申塔には自然石や自然石に「庚申」「庚申尊天」「猿田彦」「青面金剛尊天」等の文字だけのものが多く、中には青面金剛の像を彫り込んだ石神も見かける。庚申の日の晩に、人間の体内に住む三尸という虫が、人間の寝静まるのを待ち、体から抜け出して天に昇り、天帝にその人間の罪状を逐一報告する。天帝はその報告に基づいて様々の罰を与えるという。庚申の日が60日ごとに来るのでこの晩は庚申の祭をして飲食をしながら徹夜して談笑し、三尸が体から抜け出ないようにするという習わしである。庚申祭は奈良時代貴族間に始まり、鎌倉時代には武家社会にも取入れられ、江戸時代にはこの信仰が農村のすみずみまで行き渡り、このころから庚申塔が建て始められたという。 当町桟敷の猿田彦神社は庚申を主神とした社である。庚申の申と猿田彦の猿を結びつけてのことらしく、所によっては申田彦とも書き、又青面金剛を猿田彦そのものと考えている所もある。青面金剛の神像を彫刻した石像は町内各所に見かけるが、池上のは邪鬼を踏みつけた姿をしており、大久保弁財天社内のは一面六臂の青面金剛で台座に一猿が刻まれている。いずれも町内では珍らしい石神である。庚申造立の趣旨の多くは「息災延命」「二世安楽」と記されているが、悪神の進入を防ぐ塞神として村外れに建てられていたものが、後に社寺等に移されたようである。北原地区の三社権現にある三面六臂の青面金剛尊天(文化12年=1815)もその1つであろう。
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遺髪塔(実相院)
実相院の講堂前庭に相輪屋頂式石造宝塔が建てられている。宝塔建立は納経、供養、逆修(生前供養)の3つの目的があるが、墓標として用いられる場合もある。実相院の宝塔は供養が目的で建てられたもので、遺髪塔と称し基壇に納髪する装置がなされている。建立の年代は不明だが江戸時代と思われる。石垣で基壇を設け基礎、蓮花座、塔身、笠、相輪と全長4m余の大宝塔である。相輪は請花、宝輪、宝珠からなり、塔身には4面に梵字が彫られ、四仏を表わしている。
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無縫塔(卵塔)
古い寺にはその歴代僧侶の墓に無縫塔又は卵塔という石塔がある。基礎の上に倒卵形の塔身を置いたのが普通であるが、この種の古いものでは実相院墓地や国分寺跡に江戸期歴代僧侶の無縫塔が建並び、松梅地区仲の華蔵庵跡には湛然和尚以下の無縫塔が並んでいる。無縫塔の豪華なものには塔身下に請花があり中間に角柱を置き更にその下基礎上に覆蓮を刻んだ石塔がある。町内では水上の万寿寺墓地内にある天亨和尚の墓がそれである。天亨は龍造寺隆信の曽祖父剛忠の弟で万寿寺勅願第1世の名僧であった。
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如法塔(実相院)
実相院の裏山に如法塔がある。ここは「経塚」と呼んでいる所である。実相院では平安のころより如法経会が始っている。法華経には写経の功徳を説いてあるため奈良時代から写経が盛んに行われ平安時代中期になると経巻を保存しようという経塚が流行した。実相院裏山にある経塚は如法経会ごとに僧侶達の写経した法華経とその年の過去帳が納められている。
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月待供養塔
如意輪観音を主尊とした十九夜待、二十二夜待、二十三夜待二十六夜待が行われている。北原三社権現社には慶応元年(1865)の造建になる二十三夜待供養がある。井手天満宮には安政5年(1858)造建になる月天子の塔が建っている。月天子又は名月天子ともいい、月宮殿の中に住んでいて月の世界を治める神として信仰されたものである。いずれも月待供養で信者が集まって講を仕立て、男女それぞれ日をきめて集まり飲食談合し、時にはお経をあげて月の出を待つものである。日の取り方も地方によって違い、昔は十九夜待、二十二夜待講は多く性談をして安産を祈るので産泰講ともいわれ、所によっては片膝を立てた如意輪観音の姿が無痛分娩の姿勢であると信じられていた。月待供養は町内で今なお続けられている所もあり、男は年令に応じて幾組かの三夜待講を作り、女はお六夜さんと称して組ができ、今は本来の信仰は失われて毎月各戸回しで場所をきめ、飲食談笑を楽しむという一種のレクリエーションといってよい。
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高城寺地蔵尊
高城寺の本尊は釈迦如来、観世音、地蔵菩薩の三尊であるが、その中の地蔵菩薩像は地蔵木像中の傑作といわれている。胎内背面に「地蔵命」の墨書銘があり又座具板に 『本物は「うんけいさく(運慶作)」御つくろい(御繕)は「寛文六年ひのうまとし(丙午年)」さいしき(彩色)仕候 「京丈仏」仏師□□□□月□□」との墨書銘がある。※( )内は註釈 寛文3年(1663)には大木惣右衛門の肥前古蹟縁起があるが、それには当時の寺仏に運慶作とはなかったらしく、仏師七郎右衛門の推定かも知れない。桧材の寄木作りで、玉眼を入れ像の高さは68cm、寛文6年(1666)に彩色修理されている。
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餓死塔
佐賀藩は温暖な気候と肥沃な田畑に恵まれていたので、度々の台風や洪水、干魃による凶作でも切り抜けてきたが、凶作のために餓死者を出すに至ったのは享保17年(1732)の大凶作による飢饉がただ1回であったらしい。わが佐保川島郷(旧川上村)も例外ではなかった。時の大庄屋中原只右衛門尉正純は郷内庶民の苦しみを哀れみ、米倉を開放して難民に粥を与えた。1粒の米はおろかあらゆる物を食べ尽くし、餓死寸前の難民達は当地区(平野)に群がり集まって、1杯の粥の恵みを受けたが、ようやく粥場までたどり着いて落命する者も多かった。 大庄屋中原只右衛門尉正純は大飢饉の危機を脱すると、佐保川島郷内の餓死者供養塔を平野の龍徳院に建立したのが今日も残っていて、その塔の正面に 「佐嘉郡佐保川嶋郷内 几男女貮千六百四十餘人餓死塔 無主孤魂無邊幽靈等」と記してあり、左側面から右側面にかけては、漢文で次のような意味の碑文が刻まれている。 「享保17年より18年にわたり五穀みのらず飢饉となった。藩主も倉庫を開いて救援米としたが救うことができない。諸国、貴践を問わず飢に苦しみ、ついに餓死者の屍は路に重なり合い、その数は数千にも及び何とも施す術がない。茲に中原只右衛門尉正純は佐保川島郷のために救援に尽くしたが力が及ばなかった。そこで郷内餓死者の魂を弔うために、ここに餓死塔1基を建立した」 また、久留間の曹洞宗蔵福寺の旧境内にある餓死塔は高さ約1mで、正面に「餓死諸亡霊塔」と刻まれ、右側面に宝暦7年(1757)11月15日当寺の得容和尚建立と刻んである。