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[建造物][橋・井樋等][赤松校区]は5件登録されています。
建造物 橋・井樋等 赤松校区
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蒟蒻橋
龍造寺隆信誕生地のすぐ南で、中の館公民館横の水路に架けられている。近くの寺がその昔住職がいなくて荒れ果て、うっそうとした大楠にコンニャクの化け物が住みつき、ここを通る人のほっぺたにくっつき人をふるえあがらせたという。ある日のこと、うわさを聞いた侍二人がコンニャクの化け物退治にやってきて、コンニャクを切りつけたが、化け物はふるえるばかりでさすがの侍も気味が悪くなったという。このようなことから、それ以来この橋を通る人は気味が悪くいつしかコンニャク橋というようになった。この橋より北方約50mのところに官軍墓地がある。
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愛右衛門橋
多布施川がこの付近までさかのぼっていることから、藩政時代には多布施川の上流まで川砂をとりに船が上り下りをしていたという。砂をとらない時は船をはしけのかわりに横に並べ人を渡していたといわれている。その船頭役をつとめていたのが愛右衛門といわれていることから、この橋の名前がつけられたという。 今日では川幅が狭くなり周辺には民家が密集し、往時の面影を見ることはできないが、かつてはこの川も清流で種々の魚が泳ぎ風情がただよっていたといわれている。現在ある橋は、昭和58年10月につくりなおされ、当時の姿はどこにもないが「親柱」に「愛右衛門橋」という名前だけが刻まれている。
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了関橋と蓮池藩
蓮池2代藩主鍋島直之は佐賀本藩4代藩主吉茂より軍学の教えをうけるため、佐賀城下へ連日通っていたが、蓮池から佐賀城下までの道のりは遠く、構口を通ってう回しなければならず苦労されていた。そこで直之は蓮池から佐賀城下まで直線で道路を作ることを計画した。城下入口にさしかかった時、川が流れていた。これが今日の裏十間川である。直之は困りはてたすえ、橋を架けることにしこの橋に了関橋と名づけた。了関とは直之の戒名で「要玄院殿了関宗勇大居士」の了関にちなんで命名されたものである。このことについては寛永3年(1626)の佐賀城下の古地図にも見ることができる。 泰国院様御年譜地取によると、享和元年(1801)下今宿西の了関橋のことについて、「旅人通路仕上りは相叶わざる場所につき西橋取相成る等に候えども其通りに、町内の者共難儀に及び候由に」と記されている。いずれにせよこの了関橋は蓮池と佐賀城下を結ぶ重要な役割を果たした。 了関の名は藩政を子にゆずったあとの戒名でもある。了関は今の千代田町へ出て構口を通り、思案橋の蔦屋から北へまがり、柳町の今の佐賀市歴史民俗館の前を通って呉服町の旧南里の前へ出て城内に向かうという大変な遠廻りをしていました。その時代はいつも戦争のことを考えていたから川に橋をかければ便利なことはわかっていても敵に攻められるときに困るから橋は増やさないきまりになっていた。佐賀藩の殿様は了関の苦労を察し宝永7年(1710)佐賀本藩の費用で橋を架けてやった。了関のおかげで橋がかけられ大変便利になったばかりか今宿で栄え、材木町から柳町附近に繁昌していた商業が、これをきっかけに水ヶ江にも広がった。
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室園橋
もとの室園遊郭(今宿遊郭)の北入口と西入口に同名の橋が2つある。北の橋の欄干には、真松楼、酔月楼、三浦屋、三玉楼、丸吉楼、太平楼などの楼名が刻まれている。この2つの橋は室園遊郭組合の手で大正9年に造られた小さな石橋である。 遊郭で貸座敷業が始まったのは明治21年(1888)。佐賀市上芦町(高木町)は、明治17年開庁した県庁に近いため職員の風紀が乱れるとして営業廃止された。江湖端の材木町や今宿町では、廃止されると荷揚げ船の活気を減ずると異議を唱えたため、室園の地に移転し復活した。8月15日夜の今宿の精霊流しの時は、遊郭からも豪華な精霊船が出され、これを見るまで見物人は帰らなかったという。 郭の女は室園橋を渡って外に出ることは許されず、請願派出所で目を光らせた。西の室園橋を渡るのは近くの県立治療院で行われる花柳病検査のときと、身請けされて郭を去るときに限られた。 欄干には以下のように刻まれている。 (北東)むろそのはし」山遊楼」丸吉」三玉楼 (北中)一楽」明月支店」鶴明楼 (北西)赤星」太平楼」大正七年七月新工 (南西)室園橋」涼野」常盤屋」明月本店 (南中)酔月楼」三浦□(屋)」若□(治)□(屋) (南東)□(真)松楼」萬春楼」三星楼」大正九年七月竣功 この遊郭は明治中期頃からこの地に集中して歓楽街ができた。昭和10年頃には数十軒をこえる遊郭があり、遊女も百数十人を越える盛況であったといわれている。また、室園橋は、今宿へ出稼ぎする女の橋でもあり、故郷を遠く離れて働きに出る女性たちの賃金は安く、労働は過酷で、場合によっては帰らざる橋でもあった。
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横目橋
橋は材木町と水ヶ江町の間の裏十間川に架けられている。ここは佐賀城の外堀で川の西側が水ヶ江の武士の町、東側の材木町、紺屋町の名が示すように町人の町である。この橋を渡る時、いつも職業の違いで対立意識をしていたことから、お互いが敬遠して「じろり」と見つめあっていたことから、いつしかその名がつけられたといわれている。この周辺は明治の中頃まで舟が行き来をし、物資の集散地として栄えていた。この川筋の橋の横に「えびす像」が祀られている。往昔のえびす祭りは正月、5月、7月、9月の年4回行われ特に7月の祭りは川に舟舞台を設け踊りや、余興が行われていたという。いずれにせよこのえびす信仰は橋を渡る人を守護し安全を祈願したようである。近年十間堀川周辺は整備され、往時の面影に映し、風情がただよっている。