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[建造物][橋・井樋等][赤松校区]は5件登録されています。
建造物 橋・井樋等 赤松校区
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くすのさかえ橋
県庁よりは北へ中央橋で左折して佐賀駅に至っていたが、平成10(1998)年3月堀巾65mの北堀に橋をかけて城内を南へ直線で通す大通りが完成した。 橋名は「くすの栄橋」で車道巾9m、両側に歩道巾4mをもつ佐賀空港への幹線道である。北堀を渡り直ぐ右側(西)に県庁舎、左側に県立図書館があり、ついで南へ300mの左側に佐賀藩時代の倉永家馬屋敷跡を示す高さ80cmの石碑が建っている。更に南進すると人工河川の多布施川を渡る厩橋があり、石垣を積んだ棚路がある。
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蒟蒻橋
乾亨院南の多布施分流に架る小橋。 昔付近が竹藪と楠の巨木で昼なお暗い場所だった頃、夜道を通る人の頬にコンニャクがぴたっとひっつき人々をふるえあがらせていた。腕自慢の侍が2人退治に行ったが、切っても切ってもコンニャクが増え、気味が悪くなった2人は逃げ帰ったとの話による。「乾亨院のコンニャク、今ナカバッテン、ペタ」という童唄もできた。
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愛右衛門橋
多布施川がこの付近までさかのぼっていることから、藩政時代には多布施川の上流まで川砂をとりに船が上り下りをしていたという。砂をとらない時は船をはしけのかわりに横に並べ人を渡していたといわれている。その船頭役をつとめていたのが愛右衛門といわれていることから、この橋の名前がつけられたという。 今日では川幅が狭くなり周辺には民家が密集し、往時の面影を見ることはできないが、かつてはこの川も清流で種々の魚が泳ぎ風情がただよっていたといわれている。現在ある橋は、昭和58年10月につくりなおされ、当時の姿はどこにもないが「親柱」に「愛右衛門橋」という名前だけが刻まれている。
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室園橋
もとの室園遊郭(今宿遊郭)の北入口と西入口に同名の橋が2つある。北の橋の欄干には、真松楼、酔月楼、三浦屋、三玉楼、丸吉楼、太平楼などの楼名が刻まれている。この2つの橋は室園遊郭組合の手で大正9年に造られた小さな石橋である。 遊郭で貸座敷業が始まったのは明治21年(1888)。佐賀市上芦町(高木町)は、明治17年開庁した県庁に近いため職員の風紀が乱れるとして営業廃止された。江湖端の材木町や今宿町では、廃止されると荷揚げ船の活気を減ずると異議を唱えたため、室園の地に移転し復活した。8月15日夜の今宿の精霊流しの時は、遊郭からも豪華な精霊船が出され、これを見るまで見物人は帰らなかったという。 郭の女は室園橋を渡って外に出ることは許されず、請願派出所で目を光らせた。西の室園橋を渡るのは近くの県立治療院で行われる花柳病検査のときと、身請けされて郭を去るときに限られた。 欄干には以下のように刻まれている。 (北東)むろそのはし」山遊楼」丸吉」三玉楼 (北中)一楽」明月支店」鶴明楼 (北西)赤星」太平楼」大正七年七月新工 (南西)室園橋」涼野」常盤屋」明月本店 (南中)酔月楼」三浦□(屋)」若□(治)□(屋) (南東)□(真)松楼」萬春楼」三星楼」大正九年七月竣功 この遊郭は明治中期頃からこの地に集中して歓楽街ができた。昭和10年頃には数十軒をこえる遊郭があり、遊女も百数十人を越える盛況であったといわれている。また、室園橋は、今宿へ出稼ぎする女の橋でもあり、故郷を遠く離れて働きに出る女性たちの賃金は安く、労働は過酷で、場合によっては帰らざる橋でもあった。
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横目橋
橋は材木町と水ヶ江町の間の裏十間川に架けられている。ここは佐賀城の外堀で川の西側が水ヶ江の武士の町、東側の材木町、紺屋町の名が示すように町人の町である。この橋を渡る時、いつも職業の違いで対立意識をしていたことから、お互いが敬遠して「じろり」と見つめあっていたことから、いつしかその名がつけられたといわれている。この周辺は明治の中頃まで舟が行き来をし、物資の集散地として栄えていた。この川筋の橋の横に「えびす像」が祀られている。往昔のえびす祭りは正月、5月、7月、9月の年4回行われ特に7月の祭りは川に舟舞台を設け踊りや、余興が行われていたという。いずれにせよこのえびす信仰は橋を渡る人を守護し安全を祈願したようである。近年十間堀川周辺は整備され、往時の面影に映し、風情がただよっている。