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[遺跡・跡地][跡地][西与賀校区]は6件登録されています。
遺跡・跡地 跡地 西与賀校区
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今津渡船場所
江戸時代の末頃から船は本庄江を自由に上下して、高橋・厘外津・今津・相応津は河港として栄えた。中でも今津は早くから開けた商人の町として、銀行・郵便局・小学校分校などが建った。渡船場は、右岸の有重と左岸の今津は高橋をまわって用を達するという不便を感じていたので設けられた。潮が満ちるとだんべい船に人と荷車をのせて岸に着け、潮が引いた後は船を固定して、船から両岸にみち板をのせて常時通していた。昭和38年に本庄江改修工事と同時に今重橋が架橋され今津渡船場が廃止された。
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御舟小屋の跡
本庄江岸の今津下より南へ約200mの所に位置している。佐賀藩第10代藩主鍋島直正(なおまさ)の構築したもので、現在野中蒲鉾店の裏、堤防の下江湖端の約7反有余の水田が繋船地の跡であるが、今はそれらしき遺構をみることができない。ここに浅行とする46挺櫓立の大船をはじめ数多くの船が停泊し長崎警備に赴く佐賀藩士の用に備えていた。鍋島直正(閑叟公)が有明海に狩遊に出られる時にもこの地から乗船されたものである。 明治初年には蒸気機関を備えた日進艦も停泊していた。この日進艦は明治2年オランダにて進水し翌年の3月に長崎に着いた佐賀海軍の精鋭で、3本マストに1本煙突で全長200尺(約60m)であった。重量は1.300トンを有し、アームストロング前装旋回、砲10門の大砲を備えたものであった。明治3年の5月船将・真木安左衛門以下乗船員と共に政府へ献艦され、帝国軍艦として佐世保港へ繋留されて明治30年頃まで新兵練習艦になっている。 繋船場であったため堤防内側の約1反の地に船具の倉庫を建て、また藩士の詰所があり侍数名が監督のため駐在していたといわれている。この御舟小屋のため今津方面は御用船手を勤める者が多く雇われていた。 御舟小屋跡の建物は昭和初年頃まであったが近年取り壊されその跡には標柱が建てられている。
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江藤新平乗船の地
江藤新平が明治7年の佐賀戦争に敗れ鹿児島に逃れようと乗船したのがこの地である。 江藤新平と本村との関係は、その青年時代厳父に伴われ西田代本行寺小路から丸目村に引越し、寺子屋を開いて父の教育を補佐したことがある。今日寺子屋の跡はみられずその後に百崎宅が建てられている。 このようなことから本村の地理に通じていて丸目を選んだのであろう。 江藤新平は戦利あらずと見えて山中一郎、香月経五郎、中島鼎蔵、山田平蔵、生田源八と共に相応津に来て先ず本村清方宅で出航の準備をし、飴等簡単な食品を購入して乗船したという。現在この地には標柱が建てられている。
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御番所跡と丸目の渡し場
今津が藩船の繋留場であったことからここに番所がおかれていた。 対岸の嘉瀬新町との間を渡し船が往復し、丸目の渡し場と呼ばれていたが現在は橋が架けられている。ここから下流約50mの所に藩政時代の御番所跡があった。その建物は簡単な詰所であったといわれ、武士が常駐し、銃・槍などの武具を備え日夜船の出入り、そして人馬の往来と警備の任務についていたといわれている。
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大砲発射実験の跡
佐賀藩で大砲製造を始めてからその試射や発射演習が厘外、丸目で行われたといわれている。丸目在住の古老によると村々に響き渡った砲声を聞いた人もいるという。
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本庄江湖の渡し場
本庄江湖には上流の厘外と有重、中程の有重と今津、そして下流の新町と丸目にそれぞれ渡し場が設けられ人々の往来の便を図っていた。 渡す方法として、潮の干潮の時は川の中心に舟を固定し両岸にふみ板を渡して渡す方法、満潮の時は長い竿竹で舟をあやつって渡す方法、梅雨時期の大雨や台風等で川の水位が上昇した時は両岸に太いロープを固定し舟に乗りながらロープを両手で握って渡す方法があった。 丸目のように川幅が広く竿竹では川底に届かない所では櫓をこいで渡していた。 厘外と有重そして今津で長年渡し守りをしてきた大隈氏と江口氏にそれぞれ当時を回想しながら苦労話を聞いてみた。大隈氏によれば、厘外の渡し場は嘉瀬の有重地区と西与賀の厘外地区と4年ごとの交替で、大隈氏は昭和8年から12年まで当番であった。当時の舟賃は大人、こども共2銭で1日の売上は25円から30円程度で夫婦二人がその日暮せる生活費は十分あった。 年間を通じて特に客が多い季節として、徳善院への彼岸参りと高伝寺の春祭りだったという。 苦労話として夜中であろうと潮の干満によって渡し舟を移動させねばならなかったこと、そして大雨により急流のためロープで渡し舟を操作した時、満潮になり下流より砂利運搬船や、石灰、運搬船の通過時における渡し舟の移動等数多くの苦労とたたかって来た。外から見れば簡単な仕事と思われるかわからないが、尊い人命を預っているため、その責任は重大で神経の休む暇もなかったという。 一方有重の江口氏は昭和34年から38年にかけて渡し守りをしていた。当時の舟賃は片道20円で1日の売上は500円程度であったという。年間を通して一番客が多い季節として、有重のお不動さんの祭り、そして彼岸の時、本庄高伝寺の春祭りだったという。 苦労話としては大隈氏と共通していた。 なお丸目の渡し場については当時の人が現存していないため聞きとることができなかった。