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[神社仏閣][寺][富士町]は20件登録されています。
神社仏閣 寺 富士町
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吉祥山 萬福寺
宗派 臨済宗南禅寺派 円通寺末寺 由緒 初め龍門際水禅師が開いた禅庵だったが、次代字堂禅師当時を拡張として開基とし、寺名を萬福寺とした。字堂禅師の死去が永正4年(1507)1月4日であるので、創建は文明年間(1470年頃)とみられている。寺院の建物は土地の豪族合瀬因幡守右衛門尉、法名宗智雄本大禅定門建立とされる。三瀬城主神代長良の子千寿丸が手習いに通った寺で、虎山和尚の筆塚がある。千寿丸とその妹が若くして死去したので、その墓がある。
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白雲山 大光寺
宗派 浄土真宗本願寺派 由緒 天正元年(1573)2月15日、中島左衛門道空(宗麟)開基、道空は山内領主神代長良の配下であったが、40歳のとき仏門に帰依、筑前名島の妙行寺上人に師事、麻那古に一宇を建立、阿弥陀如来を安置して大光寺と号し、宗麟を法名とした。嗣子がなかったので中原の正念寺を開基とした松隈藤四郎の弟甚蔵を養子として法名を教東とし、姓を松隈より遠祖の加茂に復した。藩庁に寛政元年(1789)『一向宗由緒』に歴代住職名が次のように記されている。 開基 宗麟 第2世 教東 第3世 休順 第4世 空心 第5世 智元 第6世 祐岸 第7世 順西 第8世 定恵 第9世 恵元 第10世 廓応 当寺には永享8年(1436)以来の「麻那大光寺文書」が伝わっており、書の朱印状なども保存されている。「北山村の社寺明細帳」には、明治10年加茂龍音住職任命とある。
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祥雲山 圓徳寺
宗派 浄土真宗本願寺派 本尊 阿弥陀如来 由緒 弘安2年(1279)千葉頼胤が小城に下向したときに従った嘉村俊行は麻那古に住した。俊行の17世の孫嘉村新左衛門は龍造寺隆信と深い関係があったため、山内の雄神代勝利に抵抗し、和田、池原の戦いで全滅した。一族の中で辛うじて生き残った助五郎の子龍清が、真言宗から禅宗に改宗した廃寺を再興、一族の慰霊菩提のため、永禄年中(1558〜69)念仏道場として開基した。第三世淨専の代、元和9年(1623)本願寺の准如上人に請い、寺号を圓徳寺と賜わった。佐賀藩庁に提出した「一向宗由緒」には歴代住職の名が次のようにみえる。 第1世 龍清 第2世 淨専 第3世 淨徳 第4世 祐専 第5世 智悦 第6世 了清 第7世 慈性 第8世 専淳 第9世 淳性
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無量寿山 西淨寺
宗派 浄土真宗本願寺派 由緒 播磨守護赤松則村以来播州白旗城に拠って中国一円に威を振っていた赤松氏の一族の上月氏から出た吉浦越後守は、深く世の無常を達観して出家発心、法名を信海と改め、天文11年(1542) 3月、上無津呂に一宇を建立した。時あたかも戦国争乱で、神代勝利、長良父子は、筑前高祖城主原田種直、同了栄と、筑後の草野太郎が遣わした助勢の筑前、筑後の連合軍の来攻をうけ、退却して、上無津呂でおびただしい戦死者を出し、策略をもって神代父子は辛うじて命拾いをしたが、その弔いについて、当時同地に慶蔵庵という寺があって、住職は雷山千如寺を兼務して多忙の故に、葬儀叶わず、信海は右戦没者を一所に集めて合同葬を営んだ。それで神代氏の認むるところとなり、戦没者菩提のため、毎年13石給付、7月13日を定例に怠りなく法要を営み、血脈相承して13世寂黙代、山崩れのため寺堂つぶれ、久しく無住であった淨覚寺(古場)へ移住。現住代、昭和19年両寺門従合議の上、本堂建立、昭和28年貢1月23日、淨覚寺と三王山西光寺とを合寺して、無量寿山西淨寺と号した。初代は西光寺正倫現住職である。廃寺(合併)となった三王山西光寺(上無津呂)は神代勝利が僧信海に命じて一宇をつくらせた寺。 開基 信海 第2世 教信 第3世 龍法 第4世 智秀 第5世 祐岸 第6世 廓道 第7世 廓芳 第8世 廓長 同廃寺(合併)となった無量山淨覚寺(古場)は寛文年中(1661〜73)法縁のため当地移住、 歴代住職は第1世浄圓 第2世敬了 第3世数信 第4世 智海 第5世 俊応 第6世 俊嶺 第7世 紹隆
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万松山 天福寺
宗派 曹洞宗 玉林寺末寺 由緒 開基の即宗禅師の遷化が正徳3年(1713)9月22日になっているから、おそらく貞享、元禄のころ(1684〜1703)の創立と考えられる。本尊は、聖観昔菩薩であるが、他に釈迦如来、大日如来、十一面観昔、子安観世音、文殊菩薩、弘法大師、鎮守大明神、いぼ地蔵がある。当寺は、嘉村主計頭(法名淨仙宗清禅定門)の建立で、農地解放前は経済的に恵まれ、名僧も住持し、法燈連綿としている。当寺の法宝物は次の通りである。 一、般若経六百巻(嘉村一族5名の寄進である。) 一、大涅槃像(9尺3寸に4尺8寸の大掛軸は釈尊入涅槃の2月15日掛けられる。) 一、十王絵(地獄、極楽絵図は正月3日間展観される。)
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良源寺(高野岳)
宗派 真言宗醍醐派 本尊 高祖弘法大師 由緒 「人皇五十二代嵯峨天皇之御宇弘仁十二年辛丑之秋大師行脚之際於当山鎮心持戒之折天女出現有八葉九尊之相曼茶羅石与大師仍大師於該秘石上修浄法臨発自身刻石像為法城鎮護遣給石像之礎石者共時与天女祕石也云云然矣」この古文は、奥之院高祖弘法大師の尊像(石仏坐像高さ1m余)の右下石面に遺され、今では風化して数十字が判読されるのみである。そもそも当山は神仏混合に依り、同一境内の白山大権現修験道即ち天台に属して第36代を経て明治の初期に至る。其の間第34代の玉泉坊、災火に合い、一切を全焼して古文書類の他何物をも残さず。大正の始め、真子弥三郎という行者の後を受けて、生国四国の浦川良源氏入山して寺堂を建立良源寺と号した。時に昭和38年6月30日当地区を急襲した集中豪雨は当寺の建造物家財一切を濁流にのまれるという災害を与えた。しかし昭和40年春、遠近信徒の懇念によって本堂、庫裡再建、全く大師遺徳の然らしむるところという外はない。
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功徳山 光久院
宗派 曹洞宗 玉林寺末寺 由緒 正徳5年(1715) 玉林寺4代栢外松大和尚が開山。本尊は薬師如来、敷地2畝22歩、抱宮をして、薬師、阿弥陀、観音を祀る。歴代住職は、2代中興義堂勇長老、3代大晧虎岩首座、4代祖海透鱗上座、5代提外孚携上座、6代大雄宝大和尚、7代円明上座 (以上は天明6年佐賀藩調べの「曹洞宗由緒」による。)
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古湯山 太梅院
宗派 臨済宗南禅寺派 万寿寺末寺 由緒 開基の庭翁禅師の入寂が延宝元年(1673)11月11日だから、寛文年中(1661〜72)の創建とみられる。 本尊 観世音菩薩、明治以前、地区の寺子屋として子弟の教育の場となった。
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向陽山 龍泉寺
宗派 臨済宗南禅寺派 三間寺末寺 由緒 明暦元年(1665)創建、開基 瑞岩順禅師(小城三岳寺3代住職)明治に入り火災で焼失、現本堂は明治38年ごろ建立、無住時代もあったが、第11世住職として嬉野の瑞光寺の遠田黙雄住持が来任再興した。
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吉祥山 西福寺
宗派 臨済宗南禅寺派 本尊 阿弥陀如来 由緒 開基周年調禅師。初め泉州軒と別称した。この建物は野中和泉守の旧館であった。野中氏は千葉氏の一族で、越前(福井県)野中荘を領して野中を姓とした。野中泉州胤継は小城郡晴気に来任、市川を領した。千葉氏没落後はもっぱら市川に任し、山内豪族となった。泉州軒は泉州の子伊賀守の建立であったが、幾度遷後の寛文3年(1663)現在地に移任し、吉祥山西福寺と号した。この寺には明応6年(1497)大内義興に攻められ、市川で自刃した少弐高経の「安養院殿大憧本高大禅定門」の位牌がある。
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法輪山 西光寺
宗派 臨済宗南禅寺派 由緒 創建は永享年中(1429〜40)といわれている。開基、自空禅師。当時大干ばつのため諸国飢きん、悪病流行で土一揆、徳政一揆あり、民衆の苦悩を除き、平安な世にするため、一寺を建立し法輪山西光寺と号した。当寺はもと真言宗であったのを、元亀年中(1570〜72)川上万寿寺甫禅師に師事して臨済禅に帰依、以来法燈連綿現住西 允也氏に至り、門徒200余である。なお、内野の前田に西光寺川というのがあるが、延享年中(1744〜47)硯休禅師が、農民の難儀を救うため、開墾をすすめ、名尾川から引水したのでこの名がある。
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天穂山 光照寺
宗派 浄土真宗本願寺派 由緒 菅原道真8世の孫良政、北野天満宮社職となり、その子良清代、同社に向かって右側の右近の馬場(道真の産湯の地)に由って、菅原を右近と改姓、その孫良遠、天永元年(1110)肥前国川副郷土師(諸富町)に下向、鍋島蛎久に移り(蛎久は太宰府安楽寺の庄園であった縁故で)、蛎久天満社職となり、その子満遠は蛎久・木の角200町の地頭となる。それより、5世良尚、千葉氏に属し弘安の役の軍功により大串50町加恩。慶長14年(1609)佐賀の築城が完成に近いころ、当時の肥前国府は蛎久にあったが、それを現在の佐賀へ移転するに当たって、藩祖直茂から、蛎久の地頭であり、社職であり、血縁関係もあったところから右近刑部は、城下町つくり支配の命を受け、企画・監督に当った。その屋敷跡は六座町に右近(北面)天満宮として残っている。刑部の叔父慶念は浄土真宗に帰依出家得度、有縁の地大串に庵室を営み、慶長12年(1607)京都本願寺に詣で弥陀の尊像を受けて本寺を開基、光照寺と号し法名を浄慶と改め再び上京、第12世准如上人より宗祖の画像を受け97歳の長寿を保って示寂。嗣子として甥刑部の曽孫慶円、直茂公菩提のため出家第2代を継いだ。第3世 真海 第4世 林雪 第5世 空 第6世 性空 第7世 原道 第8世 順恵 現本堂建立は宝暦3年(1753)、檀家数210戸、敷地面積754坪、建物133.5坪
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宝瑞山 金福寺
宗派 臨済宗南禅寺派 由緒 正応3年(1290)寅3月の創建、富士町最古の禅刹、開基は普天明禅師薬師如来。 当寺は、最初の司法卿兼参議になった江藤新平が、まだ世に出る前、脱藩(無届けで藩を脱出したものは打首または永ちっ居)の罪で、ちっ居していたことで有名であるが、それは元治元年(1864)11月に、丸目に引越すまでの2年余りの間のことで、(大野区長は後の子爵富岡敬明)寺は、無住で、狐狸の出るように荒れはてていた。孫の冬雄の言によると「祖父新平が40年の生涯で生活困窮の絶頂だった由」で、次の2詩にも、それがよく表現されている。 〔元治甲子山居〕 江頭南白 作 父母告寒妻子餓 伸書不失報公恩 幽谿古寺疎窓下 染筆写成夜囈辞 同 前谷松風起 幽斉閑又閑 鳴 知何処 只看吐月山 檀家数 16戸、敷地面積 258坪 建物45.75坪 木造草葺。
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明宝山 三光寺
宗派 臨済宗南禅寺派 円通寺末寺 本尊地蔵菩薩 由緒 応永4年(1397)建立、永禄4年(1561)改築。 開基 海像禅師、寺内に栗並伊賀守の墓石あり。当寺は栗並に3か所あった寺を合併して三光寺と号したと伝えられる。野畑に寺院跡がある。昭和34年川崎弘信没して以来無住。檀家数16戸 敷地面積 346坪 建物49.25坪
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玉林山 正念寺
宗派 浄土真宗本願寺派 由緒 寛永19年(1642)創立、 開基 養心(俗名松隈藤四郎) 第2世 乘西 第3世 喜海 第4世 正悦 第5世 義海 第6世 正達 7世 豊山 檀家22戸、敷地面積 266坪 建物101坪 晩鐘の鐘銘には、第5世正達とある。これは開祖の次を第1世としたもの。(佐賀県史編纂資料、坤の巻)これによると、山号は玉林山である。 養心は、これより前、七山村馬川で西通寺を再興し開基している。(西通寺現院主は12世松隈貞憲)後、中原に隠居所を建て正念寺を開基している。約400年の歴史を持つ寺である。 正念寺は大正13年8月の大火により類焼、そのおり阿弥陀如来像1体と由緒覚・過去帳は運び出されている。正念寺所蔵の由緒覚・系図を拝見させてもらったが、周囲は焦げていて猛火の中を必死になって持ち出されたものであることがわかって、その時の模様がひしひしと伝わってくる貴重な資料である。現寺院は、昭和8年着工・12月に落慶し今日に至っている。
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東泉寺
宗派 曹洞宗 本尊 釈迦牟尼仏 由緒 創立天明年中(1781〜89) 外不明 檀家数 120戸 敷地面積…216坪 建物 延95.5坪木造
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阿弥陀堂
空心庵、鎌王宮の後ぐらいに位置し阿弥陀堂がある。ここの庵主は飯笹兵衛といわれる人であったと聞く。
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観音堂
観音堂は、麻那古峠へ通じる谷頭の地に正念寺に隣接して建っている。現観音堂は大正9年に再建されたもので、大正13年8月の大火による類焼は免れている。板壁に掛けてある大きな絵馬は、すべて大正2年1月に奉納されたものである。天井の絵もその折り描かれたものであろうと思われる。絵は元唐津藩の御用絵師であった、狩野派の流れを汲む雪渓立峰によって描かれた立派なもので、天井の竜の絵に落款がある。永い年月を経て絵の具の色が少し落ちてきているのが惜しまれる。 慈悲深く温顔豊かな観世音菩薩像は金銅の立像(像高約2m)で光背のある、蓮華の一枝を手にされた立派なもので、金銅張の厨子の中に安置されている。製作年代等は今のところ不明。 天井の絵馬の大半は、中原の住民の奉納で次に多いのが大野、麻那古・大串・上無津呂・下無津呂、さらに糸島郡深江や二里村(伊万里)鹿島・多久・牛津・久保田・久保泉と遠くからの奉納もあって信仰者の多かったことが窺える。
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薬師堂
お堂は以前、現富士町農協の予冷庫付近にあったが、明治の中頃、昭和バス・車庫前の山手へ50m程登った地に移されていた。しかしこれも昭和61年、現在の区有地へ改築遷座したもので区の薬師堂として祀っている。 薬師さん祭りが何時頃から行われてきたか定かではない。お薬師さんについての縁起などの頼りとする資料はなく、只祭りに揚げる「献幡瑠璃光尊御宝前」「明治四十二年三月三日森彦右衛門」の2本の幟と昭和30年区長であった山口光次氏が、言い伝えや祭りの記録綴を作られ残されているのが、唯一とも言える資料である。
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観音堂、瀧観世音
木城山の中腹に瀧観世音がある。瀧の高さは約10m、石の祠で祀ってあったが、昭和38年の水害により御堂、石祠共流失、その後御堂だけは再建したが未だ一部復旧の済まない部分がある。古老の言い伝えでは当祭神は子安観音であるとの事で方々から参詣があり現在でも時々他地区からの参詣を見かける。また、その境内には文殊菩薩が祭ってあり勉学の神様として、戦前までは他地区からの青少年等の参詣も多かった。地域の子ども達は今でも冬休み1ヶ所に集まり餅など食べている。最近、若者達が瀧観世音の整備に意欲を燃やし種々検討している。