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[民俗・芸能][行事][川副町]は31件登録されています。
民俗・芸能 行事 川副町
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餅つき
12月28日頃から数軒の家で結ってつき始めた。1軒の家の庭先でつくこともあるし、それぞれの家を回る場合もあった。各家では2俵もしくは3俵をつくのが普通で、滋養のある保存食料として重んぜられた。 漁村では潮の関係で最近まで旧正月に年をとることが多かった。従って餅つきは、旧正月元旦の2、3日前に各家2俵程の餅を、チャーゴウチ(茶講内)でついた。 餅は座敷をはじめ、神棚、仏壇、荒神、農具類、馬小屋、船などに供えた。荒神さんの餅は、最後の臼の餅、すなわち飾り餅をとった残りの餅で作るとされ、半円形(三日月町などではナマコ餅ともいう)にする。この餅は、「未婚の者が食べると縁遠い」「既婚の者が食べると実家へ戻る」などといわれる。 餅つきの時には、子ども達が邪魔であったのか、大人達に命ぜられ近隣にホケマクイ(ホケマクイは架空のもので、子どもに命じて借りにやらせるものの実体はない)を借りにやらせられた。 また、新しく嫁をもらった家では、嫁の実家に贈る餅をついた。この餅は一俵餅とも言われ、12月31日に鰤とともに届ける。大詫間では、この時は必ず仲人と餅かつぎ人を伴い、嫁は髯を結って行ったとされ、帰りには、一回り小さいカワリ餅(代わり餅)を持ち帰った。
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トシトクサン
土間には臼を起こして箕をのせ、その箕をその年の明きの方(恵方)に向ける。箕にはトシトクサンモチ(年徳さん餅)、トシトイカブ(年取りかぶ)、灯明などを置いたものをトシトクサン(年徳さん)という。 座敷にはツーの餅(一斗桝の上に飾る)、トシトリ餅(三宝の上に飾り、イワシを1匹のせる)、テガケ(三宝に昆布を敷き、米1升を入れ、その上に栗、ミカン、干柿各3個と木炭、トコロを添える。トコロは山竿の一種であるカゴの根を使い、ヒゲが長い程家が栄えるという。テガケのことをテガキなどともいう。)を恵方に向けて並べたりする。(東古賀) 正月松ノ内には、懸薦または藁莚をつり、門松に擬したものがあったという。(『沿革誌』) 船霊様には餅とカツオブシを供える。
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正月
(1)元旦 元日の朝、主として主婦がワカミズ(若水)をくむ。堀や川(早津江川等)の水であったという。早津江川では潮の具合をみて、ワイの水をくみあげる。この若水は神仏に供えたり、顔を洗ったり、料理に利用した。若水で顔を洗いトシトクサンを拝み、トシトリ餅をいただいて年をとる。 (2)二日 仕事始めをする。早めに起きて、藁を打ち、繩ないや円座作りなどをして仕事始めとした。また、二日には「金立さんミャーイ(参り)」をした。帰りには必ず石楠花を買い求め、自宅の神棚か仏壇にさしておき、その花の咲き方をみて、この年の豊凶を占うこともあったという。(大詫間)塩田町八天神社、唐津市鏡山稲荷社、鹿島市祐徳稲荷神社に参拝するところもある。大詫間下ノ小路では、塩田町八天神社に火事除けのお札をうけるため必ず参拝し、地区の入口にたてて火除けとする。 (3)三日 馬の初乗りとされ、青年が各家から馬を持ち出し、土手の上を走らせて競争した。(大詫間)「正月二日、盆三日」といわれ、正月のまつりがほぼ終わって、各家とも本格的に新年の仕事にかかる。
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ホッケンギョウ
竹を組み、中を一間四方に掘りくぼめたホッケンギョウ小屋を親達が作ってくれた。この小屋をカラス小屋というところもある。また、漁村では日頃から農家が糞尿をもらい受けていたこともあって、正月には「餅米」を、七日正月には「ホンゲンギョウの藁」をお礼に配ったので、その藁を用いた。こうして7日早朝には、正月の松飾り、煤はらいの竹などと燃やしてホッケンギョウ・ホンゲンギョウを催した。船津では、「ホンゲンギョウ焼くぞ、来んか」というふれ声を合図に燃やし、燃え残りの大竹を割って「オニの手コボシ」といい、又形に折り曲げてニワナカの天井につるした。「餅を7ヵ所焼いて食べると病気しない」とされ、子ども達は餅焼きに走り回ったという。犬井道では二間四方の小屋を大小の竹で作り、藁葺きにし、トシトク様に供えた吉書などを燃やし、燃えがらの高く昇るものは星になるといった。
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七草
あぶら菜・はぎな・せりなどの七草を飯杓子や包丁などを使って、タタキ菜とする。この時、「出すことなし、取っことばっかい トッコト トッコト」と唱えた(船津)。タタキ菜をする場合も「半俵臼の年徳さんの前に座ってたたいた」(船津)などとされ、他の地区でもこの際の唱え言は種々伝えられている。このタタキ菜は朝早く、雀の起きらぬうちにするものとか、地獄の底まできこえるようにたたけなどといわれ、ブリの頭や正月の塩物を用いて味付し、すい物や七草粥にして食べた。「タタキ菜のおつけの汁を爪に付けると兄弟爪」「七草粥を食べると若草の汁で人間が若返る」などとされている。
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荒神さん
「九日荒神さん」「荒神さん茶講」といって、正月9日には荒神さんの餅を焼いたり、小路毎に竹輪・カマボコ・煮〆料理で飲食したりする。「荒神さんの餅は娘に食べさせると縁遠い」などという。
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七福神
『沿革誌』には、七日正月に七福神のふん装で豆まきをすることが記されているが、犬井道でも明治末年頃まで、青年が「七福神」のふん装をして、各家を回り歩いた。古老の記録も薄れかけて不明な点もあるが、県内での採集例が少ないので述べておく。 家を訪れると全員で「七福神が舞いこんだ。舞いこんだ。」と叫びながら座敷に上がり車座になる。最初の者(不詳)が「今年はよしよし、銭もかに(金)もわくわく」という。次の者(不詳)が「げにはもっとも げにはもっとも」とあいづちをうつ。大黒(大袋を肩にかけ横槌をもつ)が「鬼はホキャー、福は内」といって畳をたたく。再度、「げにはもっとも げにはもっとも」といい、手に持った飯杓子で畳をたたく。次いで恵比須(鯛を釣った竿をもつ)が「エベス三郎左衛門殿の金のツイ竿五色の糸で、花ムコ鯛を釣りあげた」とのべる。弁財天(女性にふんしビワをもつ)が「それもそうでござんすもんね」という。 七福神は大黒神・恵比須・毘沙門天・弁財天・福禄寿・寿老人・布袋の7人の福徳の神であるが、正月に人々がふん装して集落の家々を訪れ歩く習俗として全国的に分布している。 こうして各家を訪れた青年達には振舞い酒が出されたという。なお、参考に有田町南川原地区の七福神行事を記す。 有田町南川原地区 七福神 ○実施日時 毎年正月6日 夕刻 ○参加者及び道具 提灯持ち 2名(それぞれ提灯を所持) ざる持ち 1名(一斗ざるをもつ) 大黒天 1名(木槌をもつ) 恵比須 1名(釣竿と紙で作った鯉をもつ) 毘沙門天 1名(背にミノをつけ、スリコギ棒もしくは樫の棒をもつ) 弁財天 1名(琵琶をもつ) 布袋 1名(団扇をもつ、腹はソーケを入れてふくらかす) 福禄寿 1名(頭にザルの帽子をつける) 寿老人 1名(杖をもつ) ○内容 子ども達が行う。年長者の家を輪番でエイショに決め、七福神にふん装後、地区内の各家を回る。もらい受けた餅を煮餅にして食べ、翌日はエイショに朝から集まり、昼にはぜんざいにして食べた。 また、道具や衣裳を借りた家には餅を添えて返礼をする。 ○詞章 各家には、全員で「七福神の入り、七福神の入り」と数回叫びながらあがりこむ。 座敷などに車座となり、各神々が次の順で詞章を述べる。 大黒天 「大黒天の金銀をどでんどっさりとうったてまつる」 恵比須 「恵比須三郎左衛門殿は金のつり竿五色の糸で大きな鯉をつりこんだ」 「つりこんだ」 毘沙門天 「毘沙門天の隅から隅まで悪魔払う」 布袋 「福は内に入れ」 「内に入れ」 福禄寿 「そうとも そうとも」 寿老人 「ごもっとも ごもっとも」 鬼まめふり「君のめぐみぞ」 全員 「ありがとう」 全員 「ありきぎみ恵みぞありがたき」 以上を2回繰り返し、2回目の最後は「鬼は外 福は内」と全員が唱えて立ち上がり、鬼まめふりは三宝にのせた大豆を2握り部屋中にまき散らす。この大豆を食べると1年間無病息災であるとされる。なお、佐賀県内には三瀬村、千代田町などでも行われている。期日は正月7日、2月7日などであり、旧正月の行事として実施されているところもある。
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モグラ打ち
1月14日にモグラ打ちが各地で催されていた。田畑を荒らすモグラを追い払うためとされ、笹竹の先端に藁を巻きしめた棒で、家の周囲や庭を唱え言をしながら打って回る子ども達の行事である。モグラ打ちの棒は、打ち終えると柿の木や梅の木に折ってさげるとされている。子ども達は信玄袋・樽・しょうけなどを持ち、もらい受けた餅を入れ、回り終えるとぜんざいなどをして食べた。餅をもらう時には「オカチンはヨゴーでも太うかとからおくんさい」(広江)と言ったり、「コケコッコーと声を張り上げた」という。(大詫間) 大詫間では50年位前までは村の青年達が青年宿に集まり、藁で頭から顔まで隠れるかぶりものを作り、かぶりものの中が誰であるかわからないようにして各家を回ったという。青年達は餅をもらうのであるが、その時「キョウノニワトリ、ニコンノニワトリ、オキノハタカラギッチャコンゴ ギッチャコンゴ」とかけ声を上げて庭先へ入ってきた。各家では餅を与えると縁起が良いとされていたし、餅と一緒にカマドの煤を体につけてやっていたという。 これらのモグラ打ちは戦後には、ほとんどの地区で廃止されてしまった。
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粉つき十五日
コウバシ十五日、コツキ十五日などと言って、この日、麦を煎って唐臼で粉にして食べたという。 また正月松飾りとして飾ったテガケを引き下げるのもこの日という。橙は「火事の火元などを粗末にしないように」というので、床の下に投げ入れたというし、米は炊いて神仏に供えたという。(船津)
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二十日正月
二十日正月には、忌明けの者又は、年並の悪い者等は、この日をもって更に越年の式をあげる風習があったし(『沿革誌』)、仕事を休むのが通例であった。 子ども達は「ゼンゼンサンミャーイ」をした。「ぜんぜんさんみゃーい、ぜんさんみゃーい」と言って、通行人を繩を張って取りまき、銭をもらって歩いた。学校からも注意され、評判も良くなかったので、早く消滅してしまった。(広江) 子ども等は蛭子神を道ばたへかつぎ出し、道になわを張って通行をさえぎり、「銭々三枚」として蛭子様に賽銭をあげさせていた。もしそうしなければ通行をさえぎり、悪戯をする習慣があった。(『沿革誌』) 青年達はワッカモンナカマ(若者仲間)で酒宴を開いた。男子は14、5歳になれば、ワッカモン(若者)の仲間に入った。古参の者はチュウロウ(中老)といい、これらの仲間毎に酒宴を催した。初めて農家に年季奉公をする者はみしり合いと称してこれに加わった。ヤートスエ(灸すえ)をする青年達もあった。
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大般若
地区によって催す日取りはまちまちであるが、いずれも村中の安全、悪疫防除を祈願する護符を、堀岸や路傍などのムラ境に立てている。 鹿江では正・5・9月の25日、今古賀神社で催す。威徳寺・円照寺の僧侶が神社で大般若経百巻を転読する。元は、ムラを3区に分け、それぞれ当番の区の者が世話人に当たり、区では公役2名を選んだ。公役はモロフタに大般若経一巻を入れ、各家を回った。各家に入り、へッチィ(くど)の上にモロフタをのせると、各家では桝にすくって米を出し、その集められた米が費用にあてられた。神社には酒・季節の品々や、一升三宝(1升の米でゴックウを3個握る)を供え、各地区2名の宮総代をはじめ、正月には自治会長等も参列する。寺は交替で当番にあたり、経巻を用意する。転読がすむと、公役が地区内9個所に護符を立てて回る。 こうした大般若行事は、正月中に年1回のみ催すなどと、各地で盛んである。
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初午
観音講(娘達の社交娯楽的講集団)仲間をはじめ、女児達などが、シダレ柳の枝にカンノゴシ(雑草)・大麦もしくは小麦の芽・髪を白紙に包み、水引きで結んで川に流し、自分の髪が美しくなるよう祈願した。この時、「この川やこの川や長さ広さは知らねども ながるる先までぬべや黒髪」などと唱えた。地区によって、髪と共に七草を包むとか、小麦は自分の年の数だけ包むとかされる。また、白紙に包むのではなく、藁ツトに包むとされるところもあり、川にも後ろ向きになって投げ入れるなどというところもある。初午の時には観音講仲間は野菜、煮付、おひたし、なますなどの精進料理を食べたともいう。 稲荷参拝をするところも多く、唐津市鏡山稲荷社などに参拝した。
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粥占い
2月15日に粥を炊き、3月15日までの1ヵ月間、その粥を神殿などに保管し、カビの付着具合によってその年の吉凶を占うものである。大詫間の松枝神社、早津江の志賀神社、犬井道の海童神社などがよく知られている。 松枝神社の粥占いは、宮総代宅で炊いた粥を直接32cm程の粥鉢に入れ、わらすぼ2本で東西南北の仕切りを設けて箱に入れ神殿に安置する。そして3月15日のお粥開きに開ける。 カビの色具合により、赤味があると火事、怪我、青味があると流行病の発生、干からびてヒビ割れすると旱魃などというし、カビの上につぶつぶの粒子がいっぱい付着した時は豊作などという。
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カワカミサンまつり
旧3月には、田植の前でもあって、堀にも川上川(嘉瀬川)の水が流れてきて満水になっていた。その頃を見計らって各地でカワカミサンまつり(カワカミについては、川上とあてるべきか川神か判断しがたい)・ヒャーランさんまつりが催されていた。『沿革誌』には主に寺子屋の生徒同士が行うとある。 各班毎に藁で丸舟や三角舟を作る。最近は稲の品種が丈の短いものになり、三角舟は作れなくなったという。田植え前に川上川の水が流れてきて、クリークが満水になる旧3月中に催したとされる。カワカミサンまつりは成富兵庫をしのぶとされ、大きな藁製の丸舟に、女竹で鳥居を作り、各自がヒョーゴザラ(兵庫皿)という一握りの藁を折り曲げて作った入れものに供物をのせて、丸船に並べる。供物はゴックウ・煮〆・竹輪・カマボコなどである。舟には絵が上手になるようにというので、子供達がナマズ・ナスビなどを白紙に書き、笹竹に縛って舟につきさす。(鹿江) 大詫間では子供が水難に遭わないように、松枝神社や正傳寺に祈願する。重箱に貝類その他の海産物、野菜類を詰めて参拝するが、野菜の中には必ず蕗を入れる。蕗は、もし子供が水難に遭ったとき、神様が吹き上げてくださるようにという願いがこめられているという。 また、藁舟を作り中に供物を入れて、子供達がクリークに流す。供物は、舟の中心に立てた竹に生きたムツゴロウ3匹を下げ、ゴックウ3個、神酒、煮こんだ蕗などを入れ、これにローソクを立て線香を添える。舟はすぐ岸に寄ってしまうが、これを動物(犬猫)が食べると良いとされる。また、この日子供達は床屋に行き、頭の後の襟首の部分の毛を残しておく。この毛を「ひっちょんさんの毛」といって、もし水に入りこめば神様がひっちょんさんの毛を握って助けてくれるという。(『大詫間の民俗』) 4月になって川上川の水が流れてくると、近所を誘い合って氏神に参拝する。この時には、カンビンにスボ(藁スボ)3本を立て、ゴックウ3個と共にお宮に供えてから飲食する。(広江) 天長節(4月29日)には、女性は子供を連れ、料理を重箱に詰めて氏神にこもるヒャーランサン籠りをした。(西船津) 川上水の流れてくる4月末頃に藁で丸舟を造り流す。東南里のヒヤーランサンに弁当持参で子供を連れて参った。(崎ヶ江)この他、東南里の八幡宮はヒャーランサンとして知られ、水難防止の神として近郷の尊崇が厚く、また犬井道の海童神社の水神祭においても、同様な藁の円座を流すことが催されている。
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五月節供
男の節供・五月節供・菖蒲の節供などという。初めて男児が生まれた家では、親類等を招きセックブンミャア(節供振舞)を催した。また菖蒲とフツを軒先に突き刺したり、ノボリの笹竹につけたりした。「菖蒲は塩きらう」とされ、犬井道あたりの菖蒲は大正3年の堤防決壊でほとんど全滅してしまい、あまり流行しなかったといわれている。また、『沿革誌』によると、明治末期には木綿幟が禁じられ、紙幟をたてたことが記されている。 青年達はセックジオ(節供潮)と称して潮干狩にいき、それを肴にして飲食していた。
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田の神・田植
田植にかかる日に、荒神さん苗といって苗を3束とり、荒神さんに供える。また餅米をまぜて「田の神さん握り飯」を作る。この握り飯は、根のついたメノハを上からのせて、クドや荒神さんなどの神棚に供える。また馬使いにあたる者(その家の主人等)や、田植の加勢人には昼飯などに食べさせたり、農家でない家にも配った。 この田の神さん握り飯には「メカジャーのおつけ」が必ず添えられたという。箸もよく根が張るようにというので、ヨシの根で箸を作ったところもある。 米納津では、田植にかかる頃に田の神さん(高松神社)に寄って豊作を祈願するともいう。 また、田の隅には「社日さん」という田の神さんがおらすので、そこには小便をしてはいけないといわれた。(犬井道)
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サナボリ
田植が終わると慰労の意もあって仕事を休む。 田植は水のこともあって、町内では北の方から早く済ましていた。このため「柳川さん」などとよばれる田植加勢の人達も、逐次南下してきていた。加勢人の人達は、農家に寝泊まりしていたので、サナボリの時には盛大な祝宴をはったという。
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虫供養
米納津では田植終了後1週間ほどのうちにお寺(東光寺)の都合を見計らって、虫供養を催す。各戸より1升の米をぬいて集め、男子1人が参加し飲食する。肴類は各家から持ち寄る。本堂での読経によって虫の霊をまつり、その霊を慰めるとされ、虫供養のお礼を各人の田の枚数だけいただいて帰る。早苗や野菜などの供物は、その日に川に流す。田植後の骨休み、サナボリの意味もあろうとされている。
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祗園
旧6月から旧8月にかけて町内各地で祗園が催されていた。祗園は各地・各小路毎に地蔵さんをまつってあり、それぞれの地蔵さんの命日にあたる日に夏祭りをしていたので、非常に盛んであった。青年達が中心になって舞台を作り、余興などでにぎわい、夜店が立ち並ぶところが多かった。子供達は、豆祗園をはじめ、三角の紙袋をもって豆をもらいにいったりしていた。 こうした祗園の催しも各小路の石祠(ほこら)が1個所に合祀されたりして、次第にすたれていった。 漁村部に多い恵比須像ではエビスさんの祗園などがあり、男児が施主になり豆を炊いたり、ナマスを作って参拝した人に配ったりした。 そのあとは子供達の仲間の大将の家でごちそうを食べた。また、青年が中心となって舞台で催し物をしてにぎわうところもある。
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盆
盆の準備は各家毎に墓掃除をする事から始まるが、特に定まった日はない。 13日の夜、迎え提灯を縁側に下げる。また、この夜12時頃に精霊さん迎えに筑後川端(大詫間)や鹿江の大川(支所南側の堀)などに行ったという。大詫間では若い娘が精霊迎えに行くとされ、帰りは背が重くなったという。 盆の習慣は宗派によっても大分異なるが、精霊さんを迎えるために、仏壇にはソーメンやマチモウケのダゴを供える。盆の供物もまちまちであるが、西川副のある家(禅宗)の一例をあげると、15日夜半には精霊流しを、早津江川などで行う。初精霊は特に大きな舟をコモで編み、「精霊さん御馳走」をのせて流す。丑の時に潮が満ちてきた頃に流しに行くという。船津では16日に「やぶ入り籠り」と称して、夕方頃から地区の南の八大龍王に各戸から出て飲食をする。盆には、「油ショウショウ」といって、子供達が千燈籠を催すためにお宮の籠堂につるす提灯の油銭をもらい歩いた。(広江)
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芋名月
8月15日夜は芋名月といって、男子13歳の者の運試しを行い、当夜の明曇雨によって一生の吉凶を占った。(『沿革誌』)
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豆名月
9月15日夜は豆名月といって、女子15歳の者は当夜の明曇雨によって一生の運試しをし、一生の吉凶を占った。また、女子は薬袋を縫うことが恒例であった。(『沿革誌』)
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アンコウ籠り
広江のアンコウ網漁は、島原や朝鮮半島付近にまで出かけ、エビやタチを捕る漁で、アンコウ仲間が30軒程あった。8月の盆すぎから11月上旬にかけてが漁期で、1つの漁期に10日間程出漁し、漁を終えると1週間程のカラマを利用して帰港し、出船の前の晩にお宮にこもった。また、女性はアンコウ漁で出ているときには、大漁と安全を願ってお宮でおこもりをしていた。
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ゲンシキまつり
広江にはゲンシキ網漁をする者もいた。ゲンシキ網漁は、ホーキ網を使い、車エビ・白エビなどエビ専門の漁であった。 9月頃にゲンシキ仲間(40隻程あった)で広場に小屋を作り、家からタタミ1枚をかついで集まり飲食した。祭りの準備は、モトカタ(元方)を「バンチョウワタシ(番長渡し)」で決めておいて、そのモトカタが中心となった。
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ウウマツリ
氏神の秋祭りは、浮立が奉納される。ほとんどの神社が祭田をもち、その祭田の収穫によって運営される。 犬井道地区では、「マツイメン (祭り免)」 という田があって15人程で耕作し、その収穫の一部を神社にあげ、残りで当番の家に集まって飲食をし、浮立を申し受けた。もとは、一搦の配当の残りの一部をマツメインとして神社にあげていたという。 広江は4組に分かれるが、各組7畝程の祭田をもち、漁師の組では農家に耕作を依頼して収穫を得ていた。こうして、氏神の秋祭りにはお宮での祭礼がすむと、各組の当番の家に集まり飲食をしていた。
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お日待ち
伊勢講仲間で催すのがほとんどのようである。地区により若干異なるが、餅米を1升ずつ持ち寄って餅をつき、10月14日の夜には当番の家で精進料理などで飲食し夜を徹した。 翌15日の早朝に、日の出がよく見える場所に鏡餅、酒、魚等の供物を並べ、日の出を拝んだ。
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大黒祭り
「子大黒さん」などともいわれ、12月の子の日に、大黒柱やナカエ(茶の間)の神棚にあげている大黒像をおろし、ほこりを払って座敷に飾る。昭和初期頃まで盛んに催されていたようであるが、その内客は次のようである。 ○「子の日のぼた餅」を作る。この日は「大黒さんが計算を間違うといけないので、金は一銭も出さない」といい、床の間の前に大黒をおろし、算盤・股大根・煮物・頭付きの魚を添える。(米納津) ○カブ大根・二股大根をあげ、それを干して正月の吸物に入れた。(鹿江) ○大黒さんまつりは2日するといわれ、この2日間は銭でも何でも出したらいけないとされた。最初の日はあずき飯・2日目はぼた餅を食べた。大黒さんには算盤を添え、股大根の葉をつけて供え、それを縁先に干しておいた。(五軒屋) ○大黒さんに股大根をあげる。メカジャーのおつけ・煮〆・なます・頭付きの魚を供える。(西古賀) 昭和52年12月に、東古賀の御厨新吾氏に依頼して、昔のとおりに実施していただいた。 ここでは、「大黒さんは鮒が好き」・「一年中の算入をする」・「股のある大根がよい」などといわれる。翌日はあずきをつぶしておはぎをし、それを大黒さんに供えるし、股大根は煮付にして、元旦の朝に食べる。「大黒さんは欲が深いので、あずき御飯、おはぎまで食べて行かれる」という。 祭神の大黒天については、大国主命であるとする説と、印度の神様である大黒天とする説があるが、発音が大国と大黒と同一であるところから混同されたものと考えられるが、いずれにしてもわれわれの祖先のこころをしのぶことができる。大黒天が座している俵は衣食住をあらわし、打ち出の小槌は幸運を打ち出す道具であるとされている。
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権現講
肥前の英彦山権現に対する信仰は厚く、江戸時代に鍋島氏が建造寄進したものには、上宮・中宮・下宮の神社をはじめ、銅鳥居などがあって、上宮の拝殿は佐賀の方に向かって立っているともいわれる。このため一般庶民の英彦山参拝の習慣はヒコサンミャーイ(英彦山詣り)として、佐賀平野の各地に根強く残っている。春先の農閑期を利用し講仲間の代表2、3名が、吉井・田主丸・甘木付近と小石原に宿泊し、英彦山では知り合いの坊に泊まり、上宮まで参拝して帰参する。帰りには、お札・飯杓子・英彦山ガラガラ(魔除けの土鈴で門口に下げる)をうけ、さらに上宮裏から熊笹を採ってくる。道免は戸数48戸であるが、2組の講仲間が現存し、3月15日頃にヒコサンミャーイに行く。帰参すると当番の家で寄り合って飲食をし、お札等を配る。英彦山参拝に出発すると、女達は陰膳をして、無事な帰参を祈ったという。 上宮裏の熊笹は、農耕馬の腹具合の悪い時やセンツー(糞づまり)などの時に食べさせるとよいとされた。英彦山で宿泊する坊のヤンボシ(山法師)さんは、正月頃に川副まで来て、家々を回り、悪魔祓いをしていった。 英彦山には300程の坊席があったとされ、各坊席では秋の取入れ後にコメホーガ (米奉加)、麦の取入れ後にはムギホーガ(麦奉加)として、各家を訪れて経文を唱えていた。各家では米や麦を差し出していたが、コメホーガは必ずといってよいほどなされていた。 また、都合が悪くて英彦山への参拝が不可能の場合は、佐賀市嘉瀬町徳善院に参詣するともいわれる。
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庚申講
60年あるいは60日ごとにめぐりくる庚申の夜には、三尸(さんし)の虫が睡眠中の身体から脱け出て天に昇り、天帝にその人の罪過を告げるから生命を奪われるという庚申信仰は、もと道教の説であった。したがってこの夜は、庚申講・庚申待などを組織し、夜を徹して語りあい酒食の宴を催す風があった。一般には室町時代に普及し、本県においても江戸時代になると各地に講が結成されたことが、各地に建立されている庚申塔によってうかがわれるが、江戸時代の庚申講は神道の影響を受けて庚申を猿田彦とし、仏教では腕六本の青面金剛と信仰の対象が分化しているとされている。 町内の庚申講については、その内容は不明であるが、石塔が残ることから江戸時代中期頃から盛んに催されていることがわかる。
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八天講
塩田町の唐泉山八天社を信仰する講集団である。八天社は火の神・火伏せの神として厚く信仰され、護符等をうけて荒神に供えたり荒神柱に張りつける家は多い。 また、唐泉山の姿が独特な富士山型をなすため古くから海上交通の目印となり、有明海沿岸漁家や半農半漁民にとって海上守護神とみられたようである。このような八天信仰は一部では講を成立させ、船津・広江・早津江など有明海に面する漁村などを中心に八天講が結成されたり、八天社などの石祠がまつられたりしている。 農村部には正月2日に八天さん詣りがあるし、漁村では正月23日に八天さん詣りをする。 また、八天さん詣りは「お粥さん」によって赤味があり火事の発生が多いと占われると直ちに催された。八天社からは、コメホーガ(米奉加)としてジャーサン(神官)が各地区の世話人の家を回り、米をもらい歩いた。八天さん詣りをする者の間では世話人を定めておき、各人はその人に米を持参したという。